先輩と会長
「あのさ、話は分かったけどさ」
子飼いの後輩から報告を聞き終わった彼女は困惑していた。
珍しく後輩が淹れてくれたお茶を啜りながら、頭の中で考えをまとめる。
昨日、こいつに友人の素行について相談して、すぐ原因の特定から解決策まで揃えてきたのだから、そこに文句はない。
「あいつが勉強のやり方を全く知らないってのは気がついてなかったよ。すごくありがたい話だし、あいつと仲直りできたのも感謝してるけどさ」
才能だけでやってきた人間に努力の方法を教えるのは骨が折れそうだ。
だけど友人が詐欺商売に手を染めてるよりはよほどマシだ。
まあ、それはいいとして。
生徒会長の机の上に肘をつき、両手で頭を抱えるようにしてため息をつく。
「……留年はごく自然な願望って何?」
今日、朝一番に友人から『あたし卒業しない!』と晴れやかな笑顔で宣言された時は何があったのかと思ったが、こいつが出元だったのか。
こっちがどれだけ気を揉んだのかも知らずに、後輩は不思議そうな顔で言う。
「会長は、もっと高校生をしていたいと思った事がありませんか?」
「あたし、そういうのないんだよ」
もう卒業も近くなってきて、そんな会話をしているクラスメイトは確かにいる。
話を振られれば『そだねー』と相槌を打つくらいはするが、それだけだ。
過ぎていく時間を惜しむことはあっても、取り戻そうとは思わない。
「そもそも留年してまで高校生でいたいって子はあんまりいないんじゃないの?」
就職決まらなかった大学生じゃないんだし、好んで留年したい奴なんてそうはいない。
後輩は湯呑みを手に抱えながら小首を傾げる。
「そんなもんですかね。私は来年も2年生をやりたいですが」
しれっとした顔で言っているが、こいつは自分の男とクラスメイトになりたいだけだ。
もう一度やり直したいとかとは、全く違う話をしている。
「ホントに留年はやめようね。みんな悲しむから」
いちおう釘を刺すと、後輩はガッカリした顔で肩を落とす。
「そうですか。残念です」
こいつ、まさか本気で言ってたのか?
呆れ返るが、とりあえず深追いはしないでおく。
後輩に聞きたいことは他にもあるのだ。
「……で、この、お土産なんだけどさ」
彼女が机の上の小瓶を指差すと、後輩は満面の笑顔で身を乗り出す。
「媚薬です。昨日、貰いました。ぜひ会長にと思って」
「いや、だから、あたしもう会長じゃないんだってば」
習慣でそう呼ぶのは理解できるが、さすがにそろそろ勘弁してほしい。
「今はあんたが会長なんだし、いろいろ紛らわしいから、もうやめてね」
「しかし、会長は会長ですし、他になんて呼べば」
「だから、あたしもう会長じゃねえのよ! 普通に神岡でもあーやでもいいから、名前で呼んで! 今すぐ! はい!」
「……あ、絢香さん?」
疑問形なのは不満だが、今日はこれくらいにしといてやろう。
「それで、だ。あたしが媚薬を貰って、それでどうしろっていうのよ?」
すごくいい物だから、なんて顔をして押し付けてくるから、意図がまるで分からない。
こいつはこんなよく分からない行動を取る奴ではなかったハズなのだが。
机の向かいから後輩はグイッと身を乗り出してきた。
「会長に好きな人はいないのですか? 媚薬と言えばそういう使い方ですが」
「え? あ、いや、そこはまあ、何ていうか……」
後輩に問われて、絢香は何だかモニョモニョしてしまった。
——いるんだ、好きな人。
そんな感じの好奇心いっぱいの目で後輩が彼女の顔をジッと見ている。
絢香は慌てて顔の前で両手を振る。
「違うの。好きとかそういうのじゃなくて。——ていうか、そいつにコレを使えって?」
少し頰を赤くして媚薬の小瓶を手に取った。
すかさず後輩が教えてくれる。
「オカ研部長さんが言うには特別製の媚薬ですよ」
つい、汚いものでも触ったかのように小瓶から手を離して引っ込めた。
「あ、あたし、いらないかな……」
「どうして? 媚薬ですよ? それも特別製の!」
後輩は思わずと言った感じに立ち上がり、机に手をついて迫ってくる。
「……なんであんたはそんなに媚薬が好きなの?」
怪訝な顔で椅子に座ったまま床を蹴って、絢香は少し後輩と距離を取る。
開いた距離のぶんだけ後輩は身を乗り出して迫ってくる。
「特別製の媚薬ですよ? 持ってるだけで何でもできる気になりませんか?」
「……な、何でも?」
こいつって、こんなテンション高い奴だっけ?
「何でもです! 青木さんちのラッシーに舐めさせてみようかなとか、池に入れたらどんなことになるんだろうとか、考え出したら止まらなくなりますよ」
「それ青木さんちに迷惑だからやめて」
また頭を抱えて絢香は呻くように言う。
彼女の言葉に後輩はキョトンとした顔をした。
「実際にはしませんよ。使ったら無くなっちゃうんだから、もったいない!」
「へ? 使わないの?」
顔を上げて目を丸くした絢香を見て、当然のように頷く。
「使わないから楽しいんですよ! こんなの使ったらガッカリするだけです」
長い黒髪を振り乱し、拳を振るって力説している。
その姿を見て、ようやく後輩が何を言っているのか理解した。
「ああ、わかった。あんたは媚薬を使いたいんじゃなくて《媚薬を持っている遊び》がしたいんだ?」
「分かってくれて嬉しいです!」
長いため息をついて、絢香は脱力したように椅子の背にもたれかかった。
「……小学生レベルの遊びだ」
「いえ、小学生と違うのは全く信じてないのに《本物だと信じる》ところですね。そこを押さえないと——」
もういいよ、と右手を振って会長は先輩の話を遮った。
そんな訳のわからない遊びに誘わないでほしい。
「あのね、せっかくの媚薬なんだし、あんたが好きな男に使えばいいじゃん?」
「いえ、私にはそう言う相手はおりませんので」
優雅な仕草で椅子の背に体を預け、しれっとした顔でとぼけやがる。
「こないだ、あんたがこの部屋で男子生徒と抱き合ってたって聞いたよ」
言った途端に後輩は椅子から転げ落ちた。
「にゃ! にゃ、にゃ! にゃんの事だか分かりましぇんが?」
顔を真っ赤にして言い訳しながら、両手で椅子によじ登ろうとしている。
予想以上の取り乱しようだ。
「せめてカーテンくらい閉めなさいよ。見かけたのが執行部の奴だったからいいけど、生活指導の先生だったら一悶着あったよ」
「とんでもなく不測の事態だったもので、その辺の配慮はできなくて」
後輩は椅子の上で縮こまりながら、何度も顔の汗を手の甲で拭っている。
「え? 無理やり抱きつかれたとか、そう言う事なの?」
「違います! 私の方から抱きついたのですが、緊急避難というか……。ちょっとはしゃぎすぎてしまったと言うか……。あの、この話、説明すると長くなりますので」
普段の冷静な後輩はどこへ行ったのだろうか?
呆れ返るくらいに、しどろもどろになっている。
「あんたが嫌な目に遭ったって言うんじゃなきゃいいけどさ」
絢香は手元の湯呑みを口元に運びながら言う。
一口、飲んだところで気がついた。
「そもそもあんた、男の子、嫌いじゃなかったっけ」
「嫌いと言う程でもないのですが……正直なところ、今も少し苦手です」
少し話題が変わったからだろう。
あからさまにホッとした顔で後輩が答えた。
「まあ、あんたは色々あるよね」
何しろ、この顔にこの胸だ。
低身長・童顔の絢香だって、けっこう嫌な思いをしている。
後輩に何もないとは思えない。
あまり深追いする話題でもないだろう。
絢香は机の上の媚薬を人差し指で弾く。
「これ、ポチくんにあげたら? こういうのって男の子の方が遊べるんじゃない?」
「彼は友達がいないので……」
真顔で返事が返ってきたので、絢香は思わず苦笑する。
「そんな切ない事を言われたら、こっちも切なくなるからやめてよ。じゃあ、ポチくんに飲ませちゃえば?」
なんとなく言ってみただけだったのに、後輩は耳まで真っ赤になった。
かわいいな、と思ったら、呻くような低い声が絢香の耳に届く。
「……それを私が考えなかったと思うのですか?」
「はい?」
後輩は紅潮した顔のまま、絢香をまっすぐに見据えている。
「真っ先に考えましたよ! オカ研の部室で見つけた時から、もうずっと考えてました! なんなら昨日、こっそりお茶に入れてしまおうかと思いましたよ! これでホントにどうにかなったらいいなと妄想している自分にビックリしました!」
彼女は両手の拳を握りしめて力説しているが、絢香には全く理解できない。
媚薬で妄想して遊ぶなら当たり前の使い方ではないのか?
なのに後輩は長い黒髪を振り乱して体ごと頭を横に振る。
「だって私、こんなの信じてないんですよ。なのに信じたくて仕方ないんですよ。自分でもどうかしてるって分かっているんですけど、ポチに飲ませたい衝動が抑えられないんですよ!」
「そんなの、こっそり飲ませちゃえばいいじゃん」
ため息交じりにそう言えば、後輩は驚愕の表情で絢香を見る。
「そんな事できるわけないじゃないですか。バレたらどうするんです。怖すぎます」
両手で自分の体を抱きしめるようにして身をよじる。
そんな大げさな話なのだろうか?
ちょっとしたイタズラで済む話だと思うのだが、後輩の中では違うらしい。
まあ、大マジで効果を期待しているのなら、その気持ちも理解できなくはないのだが……。
「あんたたちって付き合ってんじゃないの?」
疑問に思っていたところを率直に聞くと、彼女は悲しげに頭を振る。
「いえ、私たちはそう言う関係ではないのです」
「へ? そうなの?」
意外な言葉に、絢香はちょっと驚いた。
仲よさそうだし、いつも一緒にいるから付き合っているとばかり思っていたが、案外と複雑な関係なのだろうか?
絢香が考え込んでいる間に、後輩は改めて机にある媚薬の瓶を置き直す。
「そんなわけですので、これを持ってるといつかポチに飲ませてしまいそうだから、絢香さんがもらってください」
「結局、お土産でもなんでもなく、ただ持て余しているだけじゃん」
ワリと本気で絢香は呆れ返った。
子飼いにしていた冷静で合理主義的な後輩は、とっくにどこかへ行ってしまったらしい。
背もたれに体を預けてグッタリしている絢香を前に、後輩はグチグチと話を続ける。
「昨日、貰った時は嬉しかったんですけど。なんて言うか、妄想が捗りすぎてしまって、このままだと自制が効かなくなってしまいそうで、とんでもない事をしでかしてしまいそうな自分が怖いんです」
絢香はゆっくりと立ち上がり、黙って媚薬の小瓶を手に取った。
後輩が注視する中で蓋を開け、彼女の湯呑みに中身を全部ぶちまけた。
「ああっ、なんて事を!」
悲鳴のような声が後輩の口から漏れる。
「こういうのは、使ってガッカリするところまでが様式美だよ」
絢香は湯呑みを持ち上げ、後輩の口元へ突き出した。
「ん、飲んでみようか?」
「……いや、こんな得体の知れないモノはちょっと……」
腰の引けた様子で彼女は絢香の顔色を伺っている。
そんなモノを好きな男に飲ませようとしていたのか。
苦笑が浮かぶが、湯呑みを持った手を引っ込める気はない。
後輩はしばらく湯呑みを見つめていたが、急にハタと気がついたように口を開いた。
「恋愛成就の指輪なのですが、私にはよく理解できないところがありまして。いくらお金が貰えると言われても、好きでもない女性と付き合いたいものですか?」
なんとか話を誤魔化そうとしているのが見え見えだ。
「ん、お小遣いが貰えてヤレる女が手に入るんだから、断る男もいないでしょ?」
絢香の答えに、後輩は納得できなそうな顔で小首を傾げる。
「……そう言うモノなのですか?」
「そうよ。あんたんトコのポチくんだって、あたしが《お小遣いあげるから付き合って》って言ったら、よろめいたりするものよ」
軽い調子で言ったら、彼女はあからさまに眉を顰めた。
「ポチはそう言う人間じゃないと思いますが……」
「あんたは男に夢見すぎ。ああ、ポチくんは人間じゃなくて犬だっけ?」
言いながらグイッと湯呑みを突き出す。
後輩は上目遣いでこっちの顔を見上げる。
「これ、ホントに効くと思いますか?」
「ホントに効くのなら指輪じゃなくて、こっちを10万で売ってるよ」
肩をすくめて笑ってみせる。
あんな手口でよく儲かったと感心する。
色々と際どい話だったが、絢香なら揉み消せる範囲だ。
「さ、飲んでみようか?」
「あの、絢香さん? もしかして私が何か気にいらない事でもしましたか?」
絢香の頑なな態度に後輩が恐る恐ると訊ねてきた。
頷く代わりに絢香はニッコリと笑ってみせる。
「ううん。何もないよ。昨日、あんたの戻りをここでずっと待っていたけど、気にしてないし。あたしに報告するより、ポチくんとイチャつくのを優先されたなんて思ってないし。やる事なくてヒマだった上に他の執行部員から邪魔者扱いされたけど、よくある事だし。ひとこと言ってくれれば、あんな時間まで残らなかったし、あんな目に遭わずに済んだと思ってるけど怒ってないから」
絢香の言葉を聞くうちに後輩の顔色が変わってきた。
「……あ、それは失礼を」
ホント、怒ってはいないんだ。
ただ、ちょっと悔しいだけで。
絢香と一緒にいた時の後輩は、いつも無表情で笑顔なんて見せる事は一度もない。
冷静で合理的な判断を下す、物静かな女性だった。
なのに好きな男ができた途端に、このザマだ。
こんなにも表情豊かで感情の起伏が激しいのを、ずっとあたしに隠していたのか。
それとも、あの一年の男の子が変えてしまったのか。
どこにでもいる感じの気弱そうな男の子なのに。
こいつに、ここまで影響を与えるなんて。
——たぶん、あたしはあの男の子に嫉妬してる。
絢香には出来なかった。
それが、なんだか悔しい。
お気に入りの後輩を盗られた気分だ。
——あたしもやっぱり小学生レベルだな。
クスッと自嘲の笑いが溢れる。
それをどう解釈したのか、後輩は絢香から湯呑みを奪い取ると、仰ぐようにして一息に中身を飲み干した。
友人は特別製と言っていたが、何が入っているのだろう?
まあ毒じゃないとは思うのだが。
少し気管に入ってしまったのか。
苦しそうに咽せている後輩の前でしゃがんで、二人の視線の高さを揃えた。
とびきりの笑顔を作って聞いてみる。
「ん? あたしに惚れそう?」
後輩は口元を押さえ、涙目になりながら返事をした。
「いや、もう勘弁してください」
必死になって平静を装う姿が可愛くて、微笑ましい。
別に盗られたワケじゃないしね。
むしろ以前より距離が縮まっているくらいだ。
「絢香さんを軽んじてたつもりはないんです」
「ん、ならいいよ」
手を伸ばして後輩の頭を抱えるように胸へ抱き寄せる。
ごめん、意地悪した。
だって、あたしのじゃなくなっちゃったんだもん。
「あ、あの、絢香さん?」
後輩が戸惑った声を出すが、絢香は手を離すつもりはない。
彼女の柔らかい黒髪を撫でながら思う。
この手を離したら、またすぐあの男の子のトコへ行ってしまうんだろうから。