5-13 もみじまんじゅう
気がつけば、すっかり日が短くなっていた。
放課後が始まったばかりなのに、窓から見える空はすでに夕暮れの気配を忍ばせている。
もう秋も終わるんだなあ、と急に実感した。
今朝、教室に入ったらクラスメイトの女の子から『おはよう』と挨拶をされた。
ぎこちない挨拶だったけど、嬉しかったから僕も笑顔で挨拶を返した。
しばらくたってから梶崎が約束を守った事に気が付いた。
全ての誤解が解けるにはまだ時間がかかるだろうけれど、クラスメイトと挨拶ができるなんて相当な進歩だ。
□
昨日は結局、終電まで粘ったけれど先輩は戻ってこなかった。
僕と先輩は、それなりの時間を一緒に過ごしてきたと思っていたけど、それは勘違いだったのかなぁ。
僕らはただ同じ部屋にいた、というだけで、全く違うものをずっと見ていたのかも。
犬扱いするのはいいんだけどさ。犬を飼うなら最後までちゃんと面倒を見て欲しい。
飼い主として雑なんだよ。
木目調の格子戸を開けて和室の玄関に入れば、タイル張りの三和土に見慣れた上履きが置いてあった。
僕のより二回りくらい小さくて、色違いの上履きだ。
上履きを脱いで上がり込み、和室の暗くてかび臭い廊下を歩いて、僕らが《奥の間》と呼んでいる部屋へ向かう。
どこかの窓が開いているのだろう。襖の隙間から、風に乗って先輩の香りがした。
□
お茶セットを手にして部屋に入ると、先輩は背筋を伸ばして座布団の上に正座をしていた。
目が合うと、僕が何かを言う前に頭を下げた。
「昨日はすまなかった。カレーの皿、わざわざ公園で洗ってくれたんだな」
いきなり謝ってきたのも驚いたが、その言葉の内容にはもっと驚いた。
皿を洗ったのは見て分かるだろうが、なんで公園と知っている?
「……もしかして、先輩はずっと見ていたんですか?」
お茶セットを畳の上に置いて座布団に腰を下ろすと、彼女は照れ臭そうな微笑みを見せる。
「君は几帳面だな。この季節に公園の水道は冷たかっただろ?」
「まさか真夜中になっても戻ってこないとは思いませんでした」
ため息交じりに言ったのだが、彼女はそれをイヤミとは思わなかったらしい。
胸の下で腕を組んで《そうだろう》と言わんばかりに頷いた。
「君が終電まで粘るとは予想していなかったよ。こんな季節に無茶をすると風邪を引くぞ」
「そう思うんなら、さっさと戻ってきてくださいよ! 先輩だって寒かったでしょ?」
言いながら彼女の目の前に湯飲みを置くと、髪をかき上げて不思議そうに小首を傾げる。
「私は『少し距離を置こう』と言ったハズだが?」
「それ、そのまんまの意味だったんですか?」
「だって仕方ないじゃないか! 君が私と一緒にいたくないと言うのなら、それは尊重するしかないだろ? だが、私はどんな無理をしても君と一緒にいたいんだ! 距離を置いて見守る以外、他にどうしろと?」
畳を叩いて力説するもんだから、早くも湯飲みから茶が溢れそうだ。
「あのね、中村さんじゃないんだから、わざわざ見守らなくても結構ですから!」
「ふむ、つまり私も縦ロールにしろと?」
「言ってません! あと、僕は先輩と一緒にいたくない、とも言ってませんからね!」
彼女は腕組みをしたまま、ムッとした顔で僕を睨んだ。
「君の言い方では、まるで私だけが悪いみたいじゃないか」
「そりゃ僕の言葉が足りなかったのは認めますが……」
「友達なんかいなくても平気だと言っていただろう? 私なんかいなくたって何も問題ないハズだ。君を一人にして何が悪い?」
……怒っているのはそっちかぁ。
都合よく動かせる便利な手駒だからこそ、側に置いてくれているんじゃなかったのか?
「どうした、ポチ、何を赤くなっている?」
先輩が湯飲みに手を伸ばしながら、キョトンとした顔をしている。
「あ、いや、えーと……」
まいったな。気持ちが顔に出ちゃってる。
先輩は湯飲みを持ったまま、ジッと僕の顔を見つめている。
こういうのって恥ずかしから、すごく言いにくいのに。
「……先輩が《僕と一緒にいること》よりも、《友達であること》を大切に思ってくれていたなんて、正直なところ意外でした」
「いかんかね? 私は君の友達だ。そこは変えられんよ」
仏頂面を崩さずに言い、先輩は静かに茶を啜る。
もうダメだ。これは完全に僕が悪かった。
「ごめんなさい。先輩を誤解していました」
畳に両手をついて、正直に僕は謝った。
「友達がいなくても平気と言ったのは嘘です。先輩がいないと淋しいです。これからもずっと友達でいて下さい」
ほとんど土下座同然の姿に、先輩は長いため息をついた。
「君は怒っていないのか?」
柔らかい声になって僕に話しかけてくる。
「さすがに昨日は非礼が過ぎたと反省している。なので今日は覚悟を決めてきたんだ。もし君が望むのなら私は、も、も、も……」
言いかけたまま言葉に詰まり、頬がたちまち朱に染まった。
よほど緊張しているのか、湯飲みを持つ手が震えて茶が畳にこぼれていく。
——最初からタオルを用意しておくんだったな。
そう思った時にはすでに先輩は立ち上がり、僕を見下ろして大声を出す。
「もみじまんじゅうを一緒に食べてもいいかなって思っているんだ!」
「……そうですか」
「そうだ! 君とならそれでかまわない。私は君がいいし、君じゃなきゃイヤだ!」
「じゃあ次のお茶請けはそれにしましょうか?」
横に置いたバッグに手を突っ込みながら答えると、先輩は地団駄を踏み、
「そうじゃない、そうじゃないのに!」
顔を真っ赤にしながら力説するもんだから、さらにまた茶がこぼれた。
「ポチが勝ったから、副賞をあげなきゃ、そう思って!」
……何の話だ? 副賞なんてあったっけ?
えーと、話の流れからすると、先輩がもみじまんじゅうをくれるって事なのか?
「じゃあ、そのうちもらいに行きますよ」
よく分かんないまま微笑んで見せたら、彼女は急にピタッと動きを止めて腰を抜かしたようにペタッと座布団に座り直した。
「そ、そうか。……別に急がないでいいんだぞ」
「そうします」
僕が答えると、それっきり先輩は黙ってしまった。
満足そうな表情をしているので、今の答えで正解だったらしい。
先輩が静かになったので、畳の上をタオルで拭いているうちにハッと気がついた。
——もしかして僕、安請け合いしちゃってた?
先輩が何かをくれるってのは、何か裏があるんじゃないのか?
畳を拭く手を止めて、そうっと顔を上げて彼女を見る。
「……でも、それ、ただじゃないんですよね?」
「さあ、どうかな?」
気だるそうに髪をかき上げ、嬉しそうに先輩が微笑む。
「まあ、ポチは友達だから、少しはまけてもいいけどな」
それから彼女は右手を伸ばして、無言でお茶のお替わりを要求してきた。