4-8 先輩と添い寝
和室の障子はぴったりと閉め切られていた。
ほの暗い室内の真ん中に一組の布団が敷かれていて、枕が二つ並んでいる。
先輩は枕元の位置にちょこんと正座していた。
遅れて和室へ入ってきた僕を見上げると、気だるそうに髪をかき上げて薄く微笑む。
「ではポチ。約束通り、添い寝の時間だ」
その仕草は妖艶さを感じさせ、いつもの僕ならドキドキしているんだろうけど。
「……あのね、先輩。そんな事よりも、この犬の説明をしてくれませんか?」
布団を挟んで先輩と差し向いの位置に腰を下ろしながら、布団の上に《伏せ》の姿勢で寝ている犬を指さした。
ちなみに、けっこう大きなハスキー犬だ。
テンション高めで有名な犬種だが、知らない所へ連れて来られたせいか、ずいぶんとおとなしい感じである。
不満を隠さない僕の態度に、先輩は不思議そうに首を傾げた。
「君は今回の報酬を覚えているのか?」
「先輩が添い寝してくれるんですよね?」
念を押すように確認すると、ハスキー犬の背を撫でながら彼女は静かに微笑んだ。
「その通りだ。この犬は《先輩》という名前でな。君と添い寝をしてもらうために、わざわざ来ていただいたんだ」
「学校の向かいの青木さんちにいる《ラッシー》に見えますが?」
「ふむ、そういう名前で呼ばれる時もあるな」
「ラッシーとしか呼ばれてませんよ! ダメでしょ、人んちの犬、勝手に連れてきて変な名前付けちゃ!」
珍しく先輩が僕より先に和室へ来ていたのは、この仕込みをするためだったのか。
「そう心配するな、ちゃんと青木さんの奥さんには『ラッシーを貸して下さい』とお願いしてきた。勝手に連れてきたワケじゃない」
「やっぱラッシーって呼んでんじゃんかよ!」
僕の突っ込みを無視して、先輩は楽しそうに掛け布団をめくり上げ、
「さあ、約束の《先輩と添い寝》だ。遠慮しなくていいんだぞ」
……まさか、ここまで犬扱いされるとは。
僕が添い寝の約束をしたのは間違いなく彼女だし、ラッシーだっていい迷惑だ。
だけど僕が文句を言えば、先輩は嬉しそうに詭弁を弄してくるに決まっている。
あれこれ言うのも面倒くさいし、昨夜はほとんど徹夜だった。
せっかく布団を用意してくれたんだ。
「そこまで言うなら、遠慮なく」
それだけ言って、足から布団に潜り込んだ。
ラッシーが驚かないように軽く頭を撫でて、添い寝の挨拶をする。
「よし、ラッシー。お前は今日から僕のお嫁さんだ」
下らない冗談に先輩が目を丸くしている。
いちおう言っておくとラッシーはオスだ。
先輩が掛け布団を引っ張って僕とラッシーの上に掛けてくれたが、それが彼にはいたく気に入らなかったらしい。
ワン、と一声吠えると、いきなり布団を飛び出して和室の中を走り出し、わずかに開いていた襖の間を走すり抜けて玄関の方へ走っていってしまった。
「ああっ、ラッシー! どこへ行く!」
慌てて先輩が後を追うが間に合わなかったらしい。
「待ってくれ、ラッシー!」
廊下の彼方で、必死に叫ぶ先輩の声が遠ざかっていく。
……あの人は結局、何がしたかったんだ?
布団の中でため息をつくと、一気に眠気がやって来た。
□
目が覚めた時には、すっかり日が暮れていた。
窓の外は真っ暗で、もう運動部の声すら聞こえない。
……よく寝たなあ。
さすがに真夜中ってワケでもないだろうが、下校時刻を過ぎていないか気になる。
スマホを取ろうとして身をひねったら、すぐ真横で先輩が寝ていた。
「うわっ!」
不意を突かれて、思わず悲鳴みたいな声を上げてしまった。
ワケが分からず、そのままの姿勢で慎重に彼女の様子を確認すれば、切れ長の目は閉じられており、大きな胸がゆっくりとしたリズムでかすかに上下していた。
「……先輩?」
そっと声をかけてみたが微動だにしない。
いったいどんな夢を見ているのか、口元が少し緩んで微笑むような顔になっていた。
しかも僕の左手と彼女の右手は指を絡ませるようにしてしっかりと繋がれているから、どうしてこんな事になったのか、想像も付かない。
えーと、それで僕はどうしたらいいんでしょうかね?
このまま寝ていていいものか。それとも起きるべきか。あるいは——。
……うん。起きるしかないよね。寝ている先輩に悪さなんかできないもん。
そっと上体を起こしたつもりだったのに、その動きで先輩は目を覚ましてしまった。
僕の顔を見ると、微笑みながら眩しそうに目を細める。
「ああ、ようやく起きてくれたか。あまりにもよく寝ているものだから、どうしたものかと思っているうちに、つい私まで寝てしまった」
それから、ちょっと困った顔になり、右手を軽く持ち上げて僕に示した。
「とりあえず、もう手を離してもいいかな?」
「……あの、これ、なんで?」
「うっかり近寄ったらこうなってしまったんだ。どんな夢を見ていたのか知らないが、君は困った奴だな」
うわぁ、僕はどんな寝ぼけ方してたんだ。
慌てて手を離すと、先輩は横になったまま肘を枕にした姿勢で苦笑した。
「まいったよ。本当に君と添い寝をするハメになってしまった」
「……すいません」
これはさすがに恥ずかしい。もしかして僕が布団に引き込んでしまったのだろうか?
寝ている間によだれとか垂らしてなかったかな。
口元を確かめながら布団から這い出ようとしたら、
「ポチ、まだ下校時刻まで少しあるぞ」
——一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「それとも私と一緒の布団は嫌かね?」
彼女は気だるそうな仕草で掛け布団をめくると、
「ほら、ポチ。遠慮せずに戻っておいで」
布団の空きスペースをポンポンと叩いて僕を誘う。
「……ずいぶん手慣れた感じがしますが、先輩は添い寝の経験があるんですか?」
「ふふん、どうだろうな」
彼女はいたずらっぽく笑って見せた。
その言葉と態度が何となく不愉快で、僕はさっさと布団から這い出した。
「まあいいさ。添い寝程度でよかったら、またしてあげるよ」
先輩はあっさりとした調子で言って布団から立ち上がり、大きく一つ伸びをした。
「さて、少し早いが、そろそろ帰る時刻だ。片付けよう」
先輩に促されて布団を畳んでいると、
「ところで、ポチは中村が好きなのか?」
またワケが分からない事を言い出した。
「何ですか、それ?」
振り返ると、先輩は枕を両手で抱きしめるような格好で上目遣いに僕を見上げていた。
「だってポチは、中村にジッと見とれていたじゃないか」
「……ああ、そうですね。見てました」
それは素直に認める。でも、それは食虫植物的な人だったからであって、それ以上の意味はないんだけどな。
「ふーん。君はああいう女が好みなんだ?」
枕を抱いたまま、口元を少し歪めてバカにしたような笑いを見せる。
「中村は胸も小振りで、ちょうどいい感じだしな」
……な、中村の胸?
あの人は首から上のインパクトが強すぎたから、胸なんか全く見ていなかったぞ。
いったい、どんな胸だったんだろう?
「先輩が何を誤解しているのか知りませんけど、中村さんは僕の好みじゃないです」
「ほう、じゃあどんなのが好みなんだ?」
先輩は顔から笑みを消して、真剣な顔で聞いてきた。
「えーと、茶髪よりは黒い方が好きです」
「そうなのか?」
「そうですよ。黒髪のロングで、さらさらのストレート。顔は、切れ長で大きな目をしていてあまりバタ臭くないのが好きです。肌の色は白くても健康的で、胸は大きい方がいいですね」
じっと先輩の顔を見つめながら言ったら、すぐに僕の意図に気づいたらしい。
彼女は頬を赤く染めて、
「か、からかうな。私は真面目に聞きたかったんだ!」
怒ったような顔をして枕を僕にぶつけると、和室の外に出ていってしまった。
「後の片付けは君にまかせる!」
玄関の方から大きな声が聞こえてきた。
けっこう真面目に答えたのになぁ。