先輩と絢香 5
「合格おめでとうございます」
すっかり暗くなった雪の降りしきる帰り道。
隣を歩く後輩が急にそんなことを言い出した。
受験の話をしてるのなら、もうとっくに終わった話だ。
怪訝に思って彼女を見れば、大真面目な顔で絢香を見ている。
「……何、それ?」
「そういえば言ってなかったな、と思いまして」
後輩は少し照れたように笑いながら視線を逸らした。
その表情を見て絢香も笑う。
相変わらず変なとこで律儀な奴だ。
「ねえ、寒いからくっついていい?」
どう返事をすべきか迷ったあげく、絢香は後輩の傍に寄り添うように歩く。
ビッタリ隣を歩く絢香に後輩が苦笑している。
「ずっと聞きたかったんですが、絢香さん、何で夏服着てるんですか?」
「ん? 卒業前にもう一回だけ着とこうかなって」
「ああ、制服に感謝とお別れをって事ですか?」
後輩はあっさりと納得して頷いた。
たった一言で伝わる。
卒業でこの関係を失ってしまうのは惜しいと思う。
絢香は体に積もった雪を振り払うように肩をすくめた。
「いよいよ卒業が目の前になると、やり残してた事がありそうで」
「ああ、制服デートとかですか?」
全く思っても見なかった返事が来た。
「……いや、そういうことじゃないんだけど」
たった今、以心伝心のような心地よさを味わっていただけに、落差が酷い。
だけど後輩は大真面目な顔で絢香を振り返る。
「私はしたいですよ、制服デート!」
「う、うん。そうなんだ?」
すごい剣幕で言われて、思わず絢香は頷いてしまった。
それを同意と受け取ったのか、後輩も大きく頷いて足を止める。
「絢香さんも制服デートしたかったら、ポチ、貸しますよ?」
急に立ち止まって何を言うのかと思ったら、男の貸し借りの提案だった。
びっくりして、うまく言葉が出てこない。
「……あのね、制服デートって彼氏・彼女でするから楽しいのよ?」
「私はポチの彼女じゃないですが、すごく楽しいです!」
ようやくの事で絞り出した言葉は、後輩の自信たっぷりな言葉で否定される。
「あんた、いつの間にそういう事してたの?」
放課後デートの相談を受けたのが年末の話だ。
絢香に言わないだけで少しは進展していたのかと思ったら、後輩は目を輝かせて力説する。
「そんなのしたことありませんが、考えただけで楽しいです!」
「変な妄想膨らましてないで、ちゃんとアプローチしようよ」
「してますけど、ぜんぜん上手くいかないんです!」
「そう言うなら、何でポチ君あっさり帰しちゃって、今あたしと歩いてんの?」
「だって家の方向、違いますので」
そう言って心から残念そうに首を振った。
そりゃそうなんだろうけどさ。
「そんなんどうでもいいから相合い傘しとけよ!」
「理由もないのに、そんなことできませんよ!」
「あのね、理由なんてのは無くても作るものなの」
当たり前のことを言ったつもりだったのに、後輩は衝撃を受けたような顔になる。
「……あの、そういうものなんですか?」
「うん。みんなそうしてるから」
諭すように言ってみるが、実際のところ絢香もよく分かってない。
あまり誠実とは言えない気がするし、いい加減なことを言っている自覚はある。
後輩もいまいち納得しかねているようだ。
「よく分からないので、まず絢香さんが手本を見せてくれませんか?」
「いや、待って。あんた、何でいちいちあたしを巻き込もうとするの?」
絢香の疑問に、後輩は胸を張ってキッパリと言い切った。
「だって絢香さんがポチと制服デートしてくれたら、私もそれに続けます」
「おいっ、あたしを生け贄みたいにするんじゃねえ!」
突っ込みを入れると後輩が大笑いしている。
ホント、もったいないな。
こんな奴と知ったのが卒業間際だったのが惜しまれる。
後輩は笑いながら歩くのを再開する。
「しかし絢香さんだって別にポチが嫌いってワケじゃないですよね? 三位一体の相合い傘、ノリノリだったじゃありませんか」
「ごめん。あれ、ちょっと調子に乗ってた」
さすがに今日はやりすぎた。
話の成り行きもあったとはいえ、正面から両手両足で抱きつくとか、こいつの前でする事じゃない。
ちょっと距離を置くと言った矢先にこの有様だ。
きちんと自制を心がけないと。
「もう卒業なんだし、大目に見てよ」
軽い口調で言ってみるが、後輩は睨むような視線で絢香を見る。
「正直に言いますが、うらやましすぎます。だから私も《お姫様だっこからハグ》の流れを真似しようと狙って見たんです。なのに持ち上げる段階で『よいしょ』ですよ? 何かもう悲しくなりますよ!」
「いや、それ、あたしに言われても……」
「本当の事を言えば、今日告白しに行った女子だって羨ましくて仕方ないんです」
どうやら後輩は絢香に怒っているのではなく、自分に憤っているらしい。
ホッとすると同時に、後輩に呆れてしまう。
「告白くらい、してみりゃいいじゃん?」
「それができたら、こんなに羨ましがってません! あの勝負傘、私も欲しいです! いくら出せば売ってくれると思いますか?」
「感電するからやめとこうな?」
分かって言っているとは思うが、さすがに忠告したくなる。
だがすでに後輩に絢香の言葉は届いていなかった。
彼女はうつむいて歩きながら、独り言のように呟く。
「絢香さんがポチに名前で呼ばれてるのだって、すごく羨ましいんです。私なんかずっと『先輩』としか呼ばれてないのに」
「あんたがポチ君に《絢香》と呼べって指示したように覚えてるけど?」
口に出ているの思っていなかったのか、びっくりしたように絢香を振り返る。
絢香の前に回り込んで行く手を塞ぎ、慌てた様子で言い訳を始めた。
「いえ、それが嫌だという話ではないのです。ただ絢香さんが特別扱いを受けてるみたいで羨ましくて。だから——」
後輩は必死になってグダグダと弁解しているが、正直なところ呆れ返るしかない。
彼が名前で呼んでいる人間は他にもいる。
だけど絢香の知る限り、彼が《先輩》と呼ぶのはこいつだけだ。名前に先輩を付けて呼ぶ人間さえ一人もいない。
分かってないんだよな。
肩をすくめて後輩を見上げる。
そしたら彼女は何かを勘違いしたらしく、手足まで使って弁明を始めた。
「絢香さんに何か含むところがあるわけじゃないんです! 何も絢香さんを妬んでいるわけじゃなくて、私もそんなふうになりたいなという憧れがあって——」
もしかしてこいつは自分に対して後ろ暗いところでもあるのだろうか?
あまりにも必死になるので、そんな考えも頭によぎる。
慌てふためいている後輩をこのまま見てるのも悪くないのだが、立ち止まってジッとしているのはさすがに寒い。
後輩の肩に手を伸ばし、降り積もった雪を払う。
絢香に触れられ、後輩はビクッとして喋るのをやめた。
——あたし、そんなに怖いかなぁ。
怯えたように目を見開いて絢香を見つめている。
身動きもしない後輩の口元から白い息が吐き出される。
積もった雪が音を吸い込んでいるのだろう。
やけに静かで、絢香の耳には彼女の吐息しか聞こえてこない。
見える範囲に歩いている人もいないし、まるでこの世界に二人しかいないような錯覚を覚える。
「……あたし、あんたに言わなきゃいけない事があるの」
ふと言葉が口をついて出た。
——待て、あたしは何を言うつもりだ。
緊張で鼓動が早くなる。
決して言わないと決めていた事を口走ろうとしている。
頭の中が真っ白になって、上手い言葉が出てこない。
寒空の下、ジーャジの下は半袖の夏服なのに汗ばんできた。
「ん、と。あんた、茶道部どうすんの?」
とっさに出した話題としては上出来だろう。
実際、ずっと気になっていた事だし、二人きりの時に聞きたかった。
「年度変わったら新しく部員入れるの? そういうつもりもないんでしょ?」
「あ、いや、新年度の事はあんまり考えてなくて……」
そんな事だろうとは思ってた。
頭の雪を乱雑に払いながら絢香はこれ見よがしにため息をつく。
「そもそもあんた、自分が卒業した後の事、考えてる? あんたが卒業した後もポチくんは一年学校にいるんだよ?」
つい問い詰めるような口調になってしまった。
ひとりぼっちの和室でお茶を飲んでいる彼の姿を想像してしまう。
さすがにそんな事にはならないと思うが、不安なのも確かだ。
「分かってますよ。彼に友達がいないのだって私が原因ですから。今日、彼がクラスメイトの女子と喋っているのを見て、色々と思うところがありましたし」
少し投げやりな口調なのが気になるが、こいつなりに少しは考えているらしい。
ちょっと言い過ぎた。
後輩への後ろ暗さからか、物言いがキツくなっていた。
こういう自分に心底うんざりする。
あたしってホント、不器用。
「……ま、あたしたちが心配したって仕方ないんだけどさ」
ヘラっと笑って後輩の手を取り歩き出す。
こんな自分を慕ってくれる後輩にはけっこう感謝してるんだ。
彼はワリと人好きのする子だし、なんだかんだ言っても上手くやっていくのだろう。
「あっ、そうそう。やり残しの話なんだけど」
「あ、はい。制服デートの話ですね?」
「そっから離れようよ。そうじゃなくてさ」
どんだけ制服デートしたいんだ、こいつは。
後輩と手を繋いで歩く。
雪の降る静かな道を歩いていく。
あたしが手を繋いで歩くなんて、あんただけなんだって分かって欲しい。