08_慷慨悲歌
長い一夜が明けた。
早朝の空はよく晴れていた。透き通るような遥か天上の青は、地上を包みこむように優しい。果てなき蒼穹に、真綿に似た白い雲が浮かんでいる。
エレノアは、裏の戸口からそっと小屋の外に出た。瞳を閉じて手を組み、"星海"の神々に祈りを捧げる。それから天上を見上げ、気合いをいれた。
これから、国と鬼人族の命運を賭けて、人生最大の勝負に出る。気を引き締めてかからねば。
…………深夜遅く、エレノアはルードとともに、兄王の寝室から秘密の通路を通って城外に出た。そして、彼の転移魔術で村に戻ってきた。
兄王の協力は取り付けた。ああ見えて兄は有能だし、約束を破ったりはしない。計画はきっとうまくいく。
自らに言い聞かせて、昨夜は固いベッドで横になった。
興奮して眠れないかも……と思ってたのに、いつの間にかぐっすり寝てしまい、今朝はスッキリ目が覚めた。
我ながら図太い……と苦笑していると、後ろの戸口が開き、誰かが顔を出す気配がした。
「起きてたのか」
「はい。おはようございます、ルード」
「……」
振り返ってにこりと笑うと、彼は一瞬緋色の目を見張った。そして、バツが悪そうに目を逸らす。それに構わず、エレノアはあえて明るく振る舞った。
「今日は一世一代の大勝負ですわ。わたくし頑張ります!」
「……そうかよ」
「はい!」
ぼそりと呟く鬼人に、ぐっと拳を握りしめ、元気よく返事をする。だがその直後、横合いからかけられた冷やかな声に、場が凍りついた。
「……君たち、ずいぶんと仲がいいじゃないか。人質にはとても見えないな」
建物の影から、一人の青年が姿を現す。それは、昨日二人がここにやって来た時に声をかけてきた、緑の瞳の鬼人であった。
青年は、星のような光が散る緑の瞳を眇めた。鋭い視線が宿すのは、強烈な猜疑と敵意。相手を射殺せそうなほどの激しさは、彼が受けてきた仕打ちの凄惨さを物語っているかのようだ。
これほど激しい敵意を向けられたのは初めてで、エレノアは思わずたじろぎ、身をすくめた。
「……ところでルード。昨日の夜、転移魔術の気配がしたんだけど。村を抜け出して、二人でこそこそどこに行ってたのさ」
男はルードに対しても、剣呑さを隠そうともしない。エレノアはハラハラしながら、睨みあう両者を交互に見た。
じりじりと緊張が高まっていく。だが、ルードの肩からふっと力が抜けた。彼はため息とともに、どこか諦観の滲んだ声を吐き出した。
「……同胞に隠し事はしたくない。正直に言おう。昨夜は、フォルターナの王城に侵入した」
「……そこの人間の女と一緒にか?」
「そうだ」
「ルード、君は一体どういうつもりだ!」
「……この国を滅ぼす前に、気まぐれにこいつの提案に乗ってみようと思っただけだ」
「人間の、提案に?」
青年が驚愕に顔を歪める。
「あぁ。成功する可能性は無いと思うがな」
緑の瞳をさらに険しくした鬼人から視線を外し、ルードは素っ気なく言い捨てた。そして、自暴自棄とも取れる口調で続けた。
「俺の体に刻まれた魔方陣は、誰にも消すことはできない。自傷でも他傷でも、俺の血が流れた瞬間、この魔方陣は俺の魂を食い破って、冥界から悪鬼を呼びよせるだろう。
そして、俺たちを虐げた奴らに、鬼人の力を見せつけて終わりだ。お前らは、その前にできるだけ遠くに逃げておけ」
「それで、君はその女とどこに行こうって?」
「王都の大神殿だ」
「……何だって」
彼は一瞬絶句して、ルードの胸ぐらを掴んで食ってかかる。
「ルード!お前は、僕たちを裏切るつもりなのか!?」
「違う!」
「お止めください!」
「黙れッ!!」
思わず止めに入ったエレノアは、緑の瞳の鬼人に強い力で突き飛ばされた。地面に転がって、土のついた顔を上げる。
その視線の先。燃えたぎるような憎悪を瞳に浮かべた鬼人が、自分を見下ろしていた。
「人間よ、この手でお前を殺してやる。僕の妻がそうされたように。
……八つ裂きにして、はらわたを抉り出し、地獄の苦しみを味あわせてやる。そうすれば、お前に誑かされたルードも目を覚ますだろう」
「やめろ!」
ルードの制止を無視して、男は詠唱を始める。エレノアはゆっくりと立ち上がり、憎しみに満ちた男の双眸をそっと見返した。
「……本当に申し訳ありません。あなたの気持ちがわかるなんて、わたくしには、とても言えません。そのようなこと、烏滸がましすぎて、」
「……っ、黙れ、黙れッ!!当然だ、人間のお前に、僕たちの苦しみがわかるものか!今ここで殺してやるッ!!」
「………………でも……ほんの少しの間だけ、気持ちをおさめてはいただけませんか。この計画が失敗したら、わたくしは、どちらにしても命はありません」
痛みで胸が軋む。知らないうちに、エレノアの青い瞳から透明な雫が溢れていた。
「……あなたたちに、信じてなんて……言える立場ではない事はよくわかっております。わたくしたちは、あなたたちに本当にひどいことを……してしまって……」
唇が戦慄いて、うまく声が出ない。
彼らの怒りや憎悪は、嘆きや悲しみと表裏一体だ。神殿によって虐待され、獣のように鎖に繋がれた少女────キィアを目の当たりにした後なら、苦しいほど理解できる。
エレノアが、キィアに直接手を下したわけではない。だが、それでも罪はあるのだろう。ずっと安全な場所にいて、彼らを脅かしてきた者たちに何もせず、見て見ぬふりをしてきた罪が。
苦しめる側だった自分が泣くなんて卑怯だ、そう思うのに、涙が溢れて止まらなかった。白い頬を、透明な滴がとめどなく転がり落ちて、胸元を濡らしていく。
「……わたくしは、あなたたちへの迫害を止められる立場だったのに、今までずっと、それを見ようともしなかったのです。本当にごめんなさい……ごめんなさい」
嗚咽しながら、深々と頭を下げる女に戸惑ったのだろうか────いつの間にか、鬼人の詠唱は止まっていた。
沈黙する目の前の鬼人に、エレノアは言葉を選んで思いを伝えようと試みる。
ほんの数歩、足を踏み出せば触れることのできる、わずかな距離。けれど、彼らと自分との間には、奈落のような断絶がたしかに存在していた。
深い悲しみと、怒り。絶望。それらを越えて、自分の言葉が届くように祈りながら、エレノアは声を振り絞った。
「……それでも、今からでも、わたくしに出来ることをしたいのです。間違いは、誰かが正さねばなりません。
……あなたたちは、けして邪悪などではないのですから」
エレノアは濡れた瞳を上げて、決然と言いきった。
「わたくしは今日、それを証明したいのです」




