07_深夜密談
「お兄様、どうかお静かに」
ふいに背後の暗闇から現れた妹は、美しい唇に人差し指をあてた。
行方をくらませていた妹が、突然自分の寝室に現れた。カルスの心臓は、あやうく止まるところだった。
……数日前、カルスは妹と昼食をともにしている。
あの時と全く変わらない、いつものエレノアが目の前にいる。心配のあまり、自分が作りだした幻影なのではないか……と疑ってしまうほどだ。
生き生きとした瞳や、生真面目さと茶目っ気が同居した表情もそのままだ。ケガもなければ、顔色も良い。そんな妹を見て、カルスは深く胸を撫で下ろした。
しかし……妹の後ろに立っている男が、何よりも問題だった。
────黒一色を纏った、緋色の瞳の鬼人。その特徴は神殿からの報告と一致する。大神殿に侵入し、妹が逃亡を助けたという鬼人で、間違いないだろう。
男を最大限に警戒しながら、若き国王は眉間をぐっと寄せ、エレノアを見下ろした。
「お前、」
無鉄砲なエレノアに、言いたいことは山ほどあった。昼の行動も許されぬ暴挙でしかない。なのに、
「……エレノア、無事でよかった」
口をついて出たのは、深い安堵の滲んだ一言。ただそれだけだった。
厳しい叱責を覚悟していた様子のエレノアも、一瞬泣きそうな顔になる。だが、感情を押し殺した元王女は、冷静に頭を下げた。
「ご心配をおかけして、本当に申し訳ありませんでした、お兄様」
「まったくだ」
ため息混じりに同意した王は、「ところでお前は、どのようにしてここに来た?」と妹を問いただした。
王城への侵入は、通常なら大騒ぎになる。魔術によるものでも、必ず感知されるはずだ。
しかし、王の寝室周辺は静けさを保っている。誰にも気づかれずに、どうやって二人はここに辿りついたのだろうか。
兄の疑問に、エレノアは「わが王家に伝わる、秘密の通路を使いましたの」と悪びれずに言い放った。
「お前……あの通路を、そいつに教えたというのか!?」
しれっと答えた妹に、カルスは絶句する。
妹は背後の鬼人とともに現れた。つまり、王の寝室に通じる通路を、素性のわからぬ者に知られた、ということになる。
即刻この通路は塞がねば……
兄王は、頭の中の箇条書きに書き加えた。
現在進行形で頭痛の種を撒きちらす王妹は、頭を抱える兄を真剣に見上げ、改まった口調で切りだした。
「お兄様、細かいことにこだわっている場合ではありませんわ。今はこの国の……いえ、大陸の一大事。未曾有の危機が迫っているのです」
「……どういうことだ、エレノア、筋立てて説明してくれるのであろうな」
「いいえ……お兄様には申し訳ありませんが……全てをお伝えすることはできません。ですが、このまま何もしなければ、この一帯は確実に滅ぶ、と断言いたします。
どうかわたくしを信じて、お力をお貸しくださいませ」
「一帯が滅ぶ」と訴える妹の声音は、ひどく切迫していた。嘘や冗談でここに来たのではないのだろう。それはカルスも理解した。しかし、だからといって迂闊に信じて良いのだろうか。
王は低く唸った。
「その危機とやらは……その男と関係があるのか」
静かに佇む鬼人の男にちらりと目をやる。彼の問いかけに、妹姫は押し黙ったままである。だが否定もしない。
つまり「是」ということだろう。
黒づくめの鬼人は、一言も発する事なく、黙って兄妹の会話に耳を傾けている。
それなりに鍛えられた体つきだが、本業は戦闘職ではなく、雰囲気からして魔術師だろう。大神殿の加護をこじ開け、転移魔術で侵入したという報告からも確実だろうが、それはさておき。
一国の王として、自分はどう立ち回るべきなのだろうか。
「わたくし、お兄様に一生のお願いがあるのです」
切羽詰まった妹の声で、カルスは思考を現実に戻した。
「……お前の"一生のお願い"は、これで何回目だ?」
「今それを言いますの?お兄様は根に持ちすぎですわ。……とにかく、今度こそ最後ですから、聞いてくださいませ」
王妹はごく真剣な表情で続ける。
「どうか、神殿にいま一度、異端審問を開くよう働きかけていただけないでしょうか。そして、その場に必ず、王家に伝わる聖具、"雨の宝環"をお持ちくださいませ」
「"雨の宝環"……?」
「ええ。わたくしたちはその異端審問に参上し、ある事実を証明したいと考えておりますの」
覚悟を決めた深い青玉の瞳を、真っ直ぐに兄王を向けて、エレノアはきっぱりと告げた。その眼差しには迷いはない。
迸る水のような力強さと清冽さに、兄であるカルスさえ、この瞬間は圧倒されていた。
「…………承知した。お前の言う通りにすると約束しよう」
暫く髪をかきむしって唸っていた若き王は、最終的に、妹の無謀とも言える提案を受け入れた。
とたんに、エレノアは満面の笑みを浮かべ、子供のようにはしゃいで兄に抱きついた。
「ありがとうございます、お兄様……!一生恩に着ますわ!!」
「わかった、わかったから!」
「お兄様はやはり最高です!愛していますわ!」
よっぽど嬉しかったのだろう。抱きついたついでに、エレノアはカルスの頬に親愛のキスを降らせる。
ふと見ると、妹の肩越しに、呆れを含んだ冷やかな赤い瞳と目が合った。場違いな明るいノリについていけない、とばかりに鬼人は半目になっている。
それを見て、王は瞬時に真顔になった。
「いいから離れなさい」と王は妹を押し退けて、咳払いする。今さら王としての威厳などあったものではないが、取り繕っておかねば自分の心が持たない。
それからエレノアと王は、打ち合わせを手短にすませた。
「それでは明日、よろしくお願いいたします。"雨の宝環"をお忘れになりませんよう。では、おやすみなさいませ、お兄様」
「おい、ちょっと待て、エレノア。お前はどこへ行くというのだ」
話が終わると、妹姫は優雅に腰を折って暇を告げた。立ち去りかけた妹を慌てて引き留めれば、エレノアはきょとんとした顔で振り返った。
「え?……わたくし、鬼人族の人質ということになっておりますので、あちらに戻らねばならないのですわ」
「人質だと?大丈夫なのか……?」
「大丈夫ですわ。危害は加えないと約束していただいておりますので。では」
エレノアは、カルスを安心させるようににこりと微笑んで、闇に溶けこむように秘密の通路に滑りこんだ。
終始無言だった鬼人も、エレノアに続いて秘密の通路に消える。
彼らを見送ったカルスは、暫くしてから、はぁ、と盛大にため息を溢した、
妹の無茶な計画を知ったあとでは、不安しかない。それは大胆不敵というほかなく、本当に成功するかも怪しい。
しかし「他に方法はない」と、あの勘の良い妹が主張するのだ。信じるしかないだろう。
……彼の知る限り、エレノアの「悪い予感」が外れたことはない。ただの一度も。その妹が「フォルターナは滅びるかもしれない」と言うのであれば、何もしなければこの国は本当に滅びるのだろう。
エレノアに協力して、何もなければそれでいい。カルスは腹を括った。
明日は忙しくなりそうだ。