06_滅亡阻止
小屋に入って人目がなくなった途端、大人しくしていたエレノアは、ぱっと元気になった。ルードが手枷の魔術を消した後、興味津々といった様子で、きょときょとと家の中を見回している。
ランプに火を灯した時のような変わり身の早さに、ルードは軽く呆れた。そんな鬼人に頓着せず、エレノアは気軽な調子で話しかけてきた。
「ここがあなた方の家なのですか?」
「そうだ。だがさっき言ったとおり、お前の話は、キィアを寝室に運んでからだ」
「わかりましたわ。でしたら、追加で治癒をかけておきましょう」
素直に後ろをついてくる女を、ちらりと一瞥する。黙ってさえいれば完璧な淑女だが、その仕草は子どものように純粋で好奇心旺盛だ。
つい警戒心が緩んでしまうのは、そのせいかもしれない。
先ほどの山小屋と比べて、はるかにまともなベッドに少女が寝かされたのを見て、エレノアはほっとした表情を見せた。
女は眠り続けるキィアのそばに膝をつき、聖句を口ずさみ、治癒をかける。それが終わると、彼女はルードを見上げてにこりと微笑んだ。
「では、わたくしの提案を聞いていただけますよね」
「あぁ……こっちだ」
エレノアを促して、寝室から居間に移り、簡素な椅子に座るように手で示す。
「それでですね、このようにしたらどうかと思いますの!」
ルードが向かいに座った途端、エレノアは前のめりで話し出す。
そこから提案をひと通り聞かされた鬼人の眉間には、だんだん皺が寄っていった。そして最終的に彼は頭を抱えていた。
「……いかがでしょう、やってみる価値はあると思いますわ!」
「ものすごく無謀な気がするんだが……」
「あら、たった一人で大神殿に乗りこんだあなたほどではありませんわ」
ごく真剣な顔で返され、ルードは言葉に詰まる。
「よろしければさっそく今晩、実行に移しませんか。善は急げと申しますし。
心配はご無用です、わたくしがあなたを全力で守ってみせますわ!」
エレノアは薄い胸を叩いた。その体は折れそうなほど細い。その「全力で守る」という自信はいったいどこから来るのだろう。
本当に大丈夫か、とうろんな視線を投げかけながら、ルードはあらゆる可能性を検討した。
いくら検証しても、エレノアの提案は彼の計画とも齟齬は生じない、と判断せざるをえない。しかしこの変わり者の娘を信用して本当に良いのか。一抹の不安が過ぎる。
もう一度つぶさに考えてみる。
だが、今や鬼人は滅びるかどうかの瀬戸際だ。取れる選択肢はほとんどない。
その上で、「フォルターナ王妹の協力を得る」という数奇な巡り合わせなど、二度とやって来ないだろう。
ならば賭けてみてもいいかもしれない。
「……わかった。その提案に乗ろう」
「そう来なくては!ありがとうございます!」
両手を胸の前で合わせたエレノアが、満面の笑みを浮かべるのを見て、無表情の下でルードは再び困惑していた。
自分は悪鬼を呼び出し、国を滅ぼすかもしれない存在だ。それなのに彼女の顔は、純粋な喜びに満ちている。
エレノアは豪胆なのか、あるいは究極のバカなのか。それとも、王族だから浮世離れしているだけなのか。
いずれにしても、ルードの理解を越えていることだけは確かだった。
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────その日の深夜。
フォルターナ聖導王国の若き国王、カルスは私室の窓辺に佇んで夜空を眺めていた。
昼間はたくさんの宮廷人が行きかう王城も、今はしんと静まり返っている。
若くして王位を継ぎ、この王城の主となった彼は、歴代国王と比較しても遜色なく、立派に国を治めてきた。しかし────それは、過去の話となるかもしれない。
このところ立て続けに起きた問題が、彼を深く悩ませている。今夜は眠れそうになく、カルスは深々とため息をついた。
……悩みのひとつは、雨の減少だ。
フォルターナ王家は、慈悲を司る雨の女神の血を引くと言われる。その加護なのか、この国は恵みの雨と豊かな水源に支えられ、建国以来、干ばつとは無縁だった。
それが最近、明らかに降雨の量が減っている。"霧雨の都"と謳われる王都ですら、しばらく雨は降っていない。
このままでは大地が干からびて、農作物やさまざまなところに悪影響が出てしまうだろう。今のうちに、国庫を解放する準備を整えておく必要があるかもしれない。それと雨乞いの神事の手配も。
カルスは明日早急にすべきことを、頭のなかで箇条書きにした。
そして……もう一つの悩み。
それは、神官見習いの妹姫エレノアが、行方不明になったことだった。
大神殿の報告によれば、異端審問を妨害しに現れた鬼人の男を、エレノアはあろうことか逃亡させてしまったらしい。
さらに、鬼人の後を追って自身も失踪し、神殿側の追尾を阻んだというのだ。
報告を受けて、すぐに大神殿と王宮から人手を出して探させているが、依然として手がかりは掴めていない。
当然、大神殿はエレノアの暴挙に怒り狂っている。彼女を捕縛して異端審問にかけろ、と主張する者まで現れる始末だ。
だが……とカルスは思う。
エレノアは、非常に勘の良い姫だ。
彼が12歳になったばかりのある日。
誕生日に両親から贈られた馬に、カルスはわくわくしながら乗ろうとした。その際に、
「おにいさま、おうまさんにのってはだめです!」
幼いエレノアは、泣きじゃくって彼を止めた。
苦笑しながら彼女を宥め、カルスは馬に乗った。直後、思いきり落馬して、全治三週間の怪我を負うはめになったのは苦い思い出である。
同じような経験が何度かあり、カルスは妹の忠告に素直に耳を傾けるようになった。
妹が「神官になりたい」と願い出た時もそうだ。当時、国王夫妻だった両親も、王太子であった自分も、エレノアに反対しなかった。
フォルターナ王家から神官を志す者は少なくなかったし、不思議な勘の良さも含めて、彼女は聖職者向きだと判断したからだ。
そのエレノアが、理由もなくあんな行動に出るとは思えない。きっといつもの勘に従ったのだろう。
だが……無事なのだろうか。
年の離れた妹に深い愛情を注いできたカルスは、心配でいてもたってもいられない。
女性的で繊細な美貌に憂いを滲ませて、王が再びため息をついた、その時だった。
「お兄様、わたくしです。どうかお静かに」
「……ッ!?」
すぐ後ろから、慣れ親しんだ声が鼓膜を震わせた。
がばっと振り向くと、今まさに行方を案じていた妹と───黒装束で固めた鬼人の男が、いつの間にかカルスの背後に立っていた。
若きフォルターナ王の心臓は、軽く止まりかけた。




