02_鬼人到来
大きく開かれた扉の、向こう側。
そこに佇む少女を見て、エレノアは目を見開いた。
少女の姿は、一瞬、胸騒ぎを忘れるほどの凄惨さだった。────心臓が冷えるような光景に、彼女は呆然と見入っていた。
開け放たれた扉の前に立つ、大小の影。それは、屈強な聖騎士とひどく幼い少女だった。
少女の細い首には、封魔の輪が嵌められている。そこから伸びた鎖を、犬にするように、聖騎士は乱暴に引っ張った。少女はよろめきながら、聖騎士に引きずられるように審判台へ歩いていく。
「この悪鬼め!」
「神の裁きを受けろ!」
「鬼人を滅ぼせ!!」
誰かの声を皮切りに、神官たちが次々と少女に罵声を浴びせかける。
敵意が渦巻く中、無表情の少女は、おぼつかない足取りで歩いた。やがて二人は、審判台の前で立ち止まった。
(酷い、なんてことを……)
心臓がドクンドクンと鳴る。
──議場の中央に引きだされた鬼人の少女が、想像より遥かに幼く、そして傷だらけだったからだ。
皺ひとつない制服を纏った、身綺麗な聖騎士とは対照的に、少女は染みだらけのぼろ布を纏い、左足を引きずっていた。
顔は土気色で、肌が見えるところは痣や擦り傷だらけ。あちこちに乾いた血もこびりついている。一方的で苛烈な暴力がふるわれた痕跡が、いたるところに残されていた。
小さな頭に生えた角や、尖った耳はたしかに鬼人のものだ。しかしそれを除けば、人族や他の種族の子と同じ、ただの幼子にしか見えない。それに────
エレノアはさりげなく、自分の手首に目を落とした。そこには水色の水晶をあしらった腕輪がある。
その腕輪が、反応していない。ということは……
彼女は視線を幼女に戻して、奥歯を噛みしめた。体の内側に、言い様のない怒りが込み上げてくる。
(……こんな幼い子に……酷すぎますわ)
胸騒ぎは、どんどん強くなる。
さっきまでかすかな漣のようだったそれは、今は嵐のように激しく荒れ狂って、強烈に警鐘を鳴らしていた。
「……これから審理を行う。静粛に」
鬼人の少女を冷やかに見下ろし、神官長が壇上で宣言した。
老人特有の嗄れた声が議場に反響する。口々に罵声を浴びせていた神官たちも、一斉に静かになった。
「ここに捕らえられしは、聖なる神々に楯突く悪鬼の血を引く者。地上に災厄をもたらさんとする、邪悪な異形であることに疑いはない。よって、神の御名のもと、火刑に処す」
再び、わぁっと熱狂的な歓声が広がった。
死の宣告を受けても、少女はうなだれたまま身じろぎひとつしない。虚ろな目は、絶望と諦感だけを映して虚空をさまよっている。
(…………あのような幼い子の、いったい何をおそれるというのでしょうか)
周囲の盛り上がりを冷えた視線で眺めて、元王女は心のなかで呟く。
エレノアとて神官の末席にいる身。
神の御心に従って、神殿は正しい行いをしていると信じたい。だが、この雰囲気は……どこかおかしい。
────あの子をこれ以上傷つけたら、大変なことになりますわ。
エレノアに流れる、ひとにあらざる血が叫んでいる。身の内に吹き荒れる胸騒ぎは、それまで経験したことがないほど強くなっていた。
「……異議ある者は申し出よ」
形式的な呼びかけが、空々しく議場に響く。
目の前で進む審判はただの茶番でしかない。この場にいる誰もがわかっていることだ。
エレノアは、必死に考えを巡らせた。
(とにかく、この異端審問とやらを中止させなくてはなりませんわ。掟破りですが、国王であるお兄様の名を出してでも……)
そこで、エレノアは躊躇した。
異議申立てをした瞬間、彼女自身も「悪鬼に魅入られた者」と見なされるかもしれない。いや、確実にそうなるだろう。
悪鬼に与する者と断罪されれば、おそらく王妹でも処罰は免れない。
王家と神殿は、表向き、相互不可侵とされている。実際のところは、互いに一定の影響力を保持しているが、神殿の建前では、神官に俗世の身分は関係ないということになっていた。エレノアが王家から籍を抜いたのもそのためだ。
最悪、火刑か……と考えて、エレノアは軽く頭を振った。
"予感"はすでに"確信"に変わっている。あの子を見殺しにする方がずっとおそろしい。
意を決して、声を上げようとした瞬間。
────祭壇のそばで、バチバチッと青い火花が弾けた。何もなかった空間をこじ開けるように、青白い魔方陣が縦に現れ、光の中から長身の影が出現する。
現れた男の姿に、その場にいた神官たちがどよめいた。
「…………鬼人だ!」
「馬鹿な……神殿の加護を破って現れるなんて……!」
恐怖に叩き落とされた神官たちの悲鳴が木霊する。議場は大混乱に陥った。
鬼人の男は、消えかけた魔方陣から一歩踏み出し、辺りを睨みつけた。
大きな漆黒の巻き角。
血のようにあざやかな緋色の瞳。そこに星のような光が揺らめく。
エレノアは、突然現れた男から目をそらすことができなかった。
黒い装束を纏い、清冽さすら漂う秀麗な顔を怒りに染めたその鬼人が────なぜか、深い悲しみに沈んでいるように見えたからだ。