黒猫の王子さま
ある日、小さな黒猫が道路に飛び出しました。
まだ生まれてから3ヶ月も経っていなかったから、世の中のことをあまり知らなかったのです。
兄弟たちはその日、お母さんと一緒に昼寝をしていました。
でもその黒猫は、猫一倍好奇心が強かったから、冒険したい気持ちにかられたのでした。
よく晴れた午後のこと。
黒猫は、昼寝しているお母さん猫と兄弟猫たちから離れて、一人世界へと飛び出したのです。
最初は恐る恐る歩いていたけど、少しずつ大胆になって、歩道の真ん中を歩いたり、人間の後をつけてみたり、ぴょんぴょん跳ねる緑の物体を追いかけたりするのでした。
そんな中、白いひらひらしたものが黒猫の目の前を通り過ぎました。
とても不思議です。
あれはどうして降りてこないのか。
どうして自分はあそこに行けないのか。
黒猫は不思議でした。
思いっきりじゃんぷしたけど、その白いものに届きそうで届きません。
ちょっと当たったような気がするのに、それは依然として軽やかに空を飛び続けるのでした。
黒猫が夢中になっていたその時。
いきなり「キー」という大きな音が鳴りました。
びっくりした黒猫が振り向いてみると、そこには大きな固まりが何個も自分の目の目に立ちはだかっているのです。
黒猫はあまりの怖さに動けません。
どうしていいのかわからなくて、縮こまってしまいました。
「お母さん」
と言ったけど、小さい声でしか言えませんでした。
自分はどうなってしまうんだろう。
冒険なんてするんじゃなかった。
兄弟たちと一緒に昼寝をしていればこんなことにはなっていなかったのに......。
そんなことを考えながら、黒猫がしくしく泣いている時でした。
黒猫の両脇を、あたたかいものが触れました。
それは、小学生のまみちゃんの手です。
まみちゃんは学校の帰り道、たまたま黒猫が道路に飛び出して、車に轢かれそうになるところを目撃したのです。
車通りの多い道だったから、黒猫が縮こまってしまった道路には、たくさんの車が控えていました。
縮こまって動けなくなってしまった黒猫を心配し、まみちゃんは一目散に猫のところへ駆けつけ、猫を助けてあげました。
そして、安全な歩道に猫をそっと下ろしたのです。
黒猫は泣いていました。
何が起きたかまだわかっていませんでした。
ただただ怖かったのです。
でも、まみちゃんのあたたかい手に触れて、猫は一瞬で安心感に包まれたのでした。
「大丈夫?」
まみちゃんは、猫にそう尋ねます。
「うん」
と黒猫は言ったけど、もちろんあみちゃんには「みゃ〜」とした聞こえません。
「危ないから道路に飛び出しちゃダメだよ。」
まみちゃんは黒猫にアドバイスをしました。
「はい。」
そう黒猫は言ったけど、やはりまみちゃんには同じように「みゃ〜」と聞こえるのでした。
黒猫は、お母さん猫から人間に近づいちゃだめだよと教えられていました。
人間は野蛮な生き物で、ろくな生き物ではないのだと。
だから、黒猫も当然のように、人間は怖い生き物で、野蛮な生き物だと理解していたのです。
でも、どうやらまみちゃんだけは違うようでした。
まみちゃんは違う。
黒猫は、野蛮な人間というカテゴリーから、即座にまみちゃんを外しました。
そして、その日、まみちゃんが去っていく後ろ姿を見つめながら、まみちゃんのことも自分の大事なお母さんや兄弟たちのように大切にしようと誓ったのです。
それから5年が経ったある日のこと。
中学生になったまみちゃんの近くをこっそりと歩いているのは、あの黒猫でした。
黒猫は、まみちゃんのことを自分の大切な家族として大切にしようと決めたその日から、まみちゃんのことををいつも陰ながら見守っていたのです。
まみちゃんが小学校から帰る時も、ときどきまみちゃんの後を追っては、野蛮な人間がまみちゃんに近づかないように警戒していました。
ある日、まみちゃんの後ろをあやしいおじさんが追っていた時のこと。
危ない空気を察知した黒猫は、直ちにおじさんに襲いかかり、おじさんの顔をひっかきました。
驚いたおじさんはそのまま道路に尻餅をつきました。
そして、毛先を立てて明らかにこちらを威嚇している猫に気づいた途端、おじさんは恐ろしくなってその場を早々に立ち去ったのです。
もちろん、まみちゃんはまさか自分が助けたあの猫が自分のことを毎日守ってくれたなんて知りません。
でも、黒猫はそんなこと気にしていませんでした。
人間で唯一野蛮ではないまみちゃんを、そして自分の家族の一員であるまみちゃんを、守ることは当然のことだったからです。
ある日のこと、まみちゃんは家に帰らずに、近くの公園に立ち寄ることがありました。
いつもとは違う行動に黒猫は不思議に思いました。
なぜならこれまで一度も公園に寄ることなく、そのまま家に帰っていたからです。
きっと何かがあったのでしょう。
まみちゃんは悲しげでした。
公園のベンチに腰掛けてときどき自分の足元を見たり、空を見たり、空を飛んでいる鳥を目で追って見たりしていました。
まみちゃんが悲しんでいる。
これは黒猫にとって由々しき一大事です。
まみちゃんが悲しんでいる。
大事な家族の一員であるまみちゃんが悲しんでいるのを放っておくわけにはいかなかったのです。
黒猫は少し考えてから、まみちゃんの元へとゆっくり歩いて行きました。
そして、まみちゃんのすぐ足元に来ては、「まみちゃん大丈夫だよ」と言いながらまみちゃんの足をすりすりしました。
もちろん、まみちゃんには「みゃ〜」としか聞こえません。
まみちゃんは驚きました。
野良猫が自分の近くに来て足元をすりすりしているのですから。
これまで何度も野良猫を見たことがあったけど、ほとんどの野良猫は人間が近づこうとするだけですぐ逃げることが多かったからです。
まみちゃんは野良猫が「みゃ〜」と泣いた時、5年ほど前に道路に飛び出したあの猫のことを思い出しました。
猫を歩道にあげた後、猫はたしかこんな風に「みゃ〜」と鳴いたのでした。
自分の足を今すりすりしているこの猫も、黒猫でした。
まさか、そんなはずない。
まみちゃんはそう思ったけど、猫がこっちを見上げたとき、まみちゃんは驚きました。
なぜなら、その黒猫は右目が青で、左目が黄色だったからです。
それは、5年前に自分が助けた黒猫とまったく同じ目の色をしていました。
「まさか、あの時の猫......?」
まみちゃんは思わずそう呟きましたが、猫が相変わらず「みゃ〜」と鳴くだけです。
この猫があの時の猫なのかどうか確信は持てなかったけど、まみちゃんは、まるで自分のことを慰めてくれるようなしぐさをする黒猫に親しみを感じました。
次の日も、その次の日も、まみちゃんはやはり家にはすぐには帰らず、帰り道にある公園に寄りました。
この公園は静かだったから、まみちゃんが近所で一番気に入っている場所だったのです。
この公園のベンチに腰掛けて、近くの木を見たり、空を飛んでいる鳥を見たり、心地よい風を感じることで、なんとなく気持ちが安らぐような気がしたのです。
そうしているうちに、あの黒猫がまたやってきました。
公園には他にも人がいたけど、その黒猫はいつも自分のところだけに来るのでした。
「まみちゃんは、世界一やさしくて、世界一きれいな人間だよ。」
黒猫は今日もそう言います。
もちろん、まみちゃんには「みゃ〜」としか聞こえません。
でも、まみちゃんには十分黒猫の愛が伝わりました。
なぜなら、猫が「みゃ〜」と鳴くたびに、不思議と心があったかくなっていたからです。
ある日、まみちゃんが公園でいつものように黒猫と寄り添いながらベンチに座っていたときのこと、同じ制服を着た学生が公園の横を通り過ぎました。
すると、「うわ。あいつがいるじゃん。まじで学校に来なければいいのに。」と、まみちゃんに聞こえるような声で話すのです。
すると、その言葉を聞いた途端、黒猫は立ち上がりました。
そして勢いよく学生たちに向かって走って行っては、渾身の猫パンチを食らわせたのです。
学生たちは猫に襲われて心底驚いたのでしょう。
「キャー!!」と大きな悲鳴を上げながらその場を逃げていきます。
何事もなかったかのように黒猫はまみちゃんの隣でまた丸くなりました。
まみちゃんも今の出来事に驚きましたが、何事もなかったかのようにすやすや体を丸めている黒猫を見て、なんだか少し可笑しくなりました。
黒猫にもその気持ちが伝わったのでしょう。
黒猫はまた「みゃ〜」と言いました。
「僕が守ってあげるからね。まみちゃんは何も心配しなくていいんだよ。野蛮な人間たちは僕が退治するんだ。応援が必要な場合は、兄弟たちに協力をお願いするからね。」
黒猫は、本当はそう言ったのです。
今日も、公園にはまみちゃんと、黒猫がいます。
まみちゃんは今日、公園で本を読んでいました。
そして、時々ノートを取り出しては、何かを一生懸命書いたりしています。
そして言いました。
「私はね、将来作家さんになりたいんだ。それで、最近物語を書き始めたんだよ。なんだかすごく楽しいの。」
作家さんって一体なんだろう。
黒猫には作家さんというものがなんなのか全くわからなかったけど、まみちゃんの目はキラキラしていました。
もう悲しそうな目ではありません。
まみちゃんは引き続き一生懸命ノートに物語を描き続けています。
黒猫は知らなかったけど、まみちゃんが書いているのは、右目が青で、左目が黄色の黒猫「プリンス」の物語でした。
「君の名前はプリンスだよ。私にとって、君は王子様だから。」
まみちゃんは、自分の隣ですやすや寝ているプリンスにそう声をかけて、またペンを走らせるのでした。