第2話:夢幻の如き遊戯場
青かった空はすっかり茜色へと変わっていた。
蒸し暑さが日中よりも幾分が鳴りを潜めて、されど人の活気は未だその熱を失わない。
大通りを相変わらず大勢の人間が行き交っている。賑やかな喧騒を耳にしながら、今日の夕食処をアキラは探して彷徨った。
今や日本食というのは、全世界から注目を集めている。健康的というのが一番理由として大きい。彼が滞在していた国にも日本食はあったし、その国ならではの独自性があって面白かった――味については、あまり言及はしない。
せっかく日本にいる。ホテルにも飲食店はあったが、今のアキラは洋食という気分ではなかった。本場の日本食を食したい、その思いでこうして外に出ているわけなのだが――
「――どこにしよう」
彼是三十分近く歩いているが、まだどの店にも決められていない。せっかくここにしよう、と決めても他の店が目移りをさせてくるから、未だ入店できずにいる。
時間だけがいたずらに消費されていく。
「う~ん……食べたいものが多すぎるぞ」
そう口にしつつ、彼はまだどの店にも入れていない。
「――あれ? ここは……」
――いつの間にか、大通りから外れた場所にいた。
夕陽を浴びて赤く輝いている店は、とても小洒落た外観をしている――【夢幻の如き遊戯場】、とそういう喫茶店なのだろう。
「……もう、ここでいいか」
先程からアキラの腹部からは絶え間なく腹の虫が鳴いていた。これ以上はもう我慢できない、そう悟った彼はその店に入ることにした。
――ちりん、ちりん。
入店者を知らせるベルに歓迎されて足を踏み入れたアキラの顔は、たちまちしかめられた。
勝手に喫茶店だと思い込んでいた、それについては彼の落ち度であるので誰の責任でもない。
この店は、予想から大きくかけ離れている。何よりも、自身の趣味嗜好にまったく沿わない。
場違いにも程がある。
すぐにアキラは踵を返した。
幸いなことに、まだ店員らしき人物は見当たらない。冷やかしであると邪険に扱われるぐらいならばともかく、無理矢理購入させてこられては面倒なこと極まりなかった。
ドアノブを掴む。後はこのまま回して押せば、何事もなく終わる。ドアノブを回し、扉を――
「あら、いらっしゃいませお客様! ようこそ、私のドールショップ【夢幻の如き遊戯場】へ」
「ちっ……」
思わず舌打ちをしてしまう。いきなりやってきて舌打ちをされて酷い客だ、と思われても仕方がない挙措なのは否めない。だが、厄介なことになりそうな気配をこの時アキラは感じていた。
「……どうも」
とりあえず、最低限の礼儀として来客者としてアキラは振る舞うことにした。しかし、どんなに商品を進められても買わない、という絶対不変の意志を強く胸に秘めて。
「お客様、本日はどのようなご用件でしょうか? ここは他の店と比べると小さいですが……でも! 品揃えの数なら負けませんよ? あ、申し遅れました。私、この【夢幻の如き遊戯場】の店長をしております、九十九楓と申します」
「そ、そうか……」
「それでお客様、何かお求めの物がありましたら是非是非お申し付けください!」
「あ、ありがとう……」
ぎこちなく返答し、内心で溜息をもらした後、アキラは店内を見て回る。女店長が店の奥へと引っ込んだその瞬間が訪れるのを、今はただ耐えるしかなかった。
――改めて店内を見やれば、多種多様の商品が設けられている。
彼女が先に見せの強みを口にしていたとおり、小さい店舗ながらも品の数は多い方と言えよう。
球体関節人形――アキラは人形遊びというものはやったことがないし、周りにもそうした遊びをする女子は一人もいなかった。人形を使っておままごとしたりする、と聞きかじった程度の情報しかない。
だからこそ、彼はこの手の世界について理解が追い付けない。購入者はこの人形をどのようにして遊ぶのだろうか。
そもそも、値段が高すぎる。ディスプレイに飾られている人形は、とても玩具とは思えないほど美しい。ましてや化粧を施すなど、彼の常識からでは考えられない概念であった。
その値段が十万円以上もするのだから、子供をはじめ一般人が易々と手を出せる代物ではない。
十万円以上もするこの人形に付けられた価値が、アキラにはどうしてもわからない。同じ値段をするのであれば、もっといい物が手に入る。
最近だと、アキラは新しい得物がほしかった。それも十万円相当するが、選ぶとすれば断然こちらであった。
「…………」
「…………」
女店主が、一向にどこかへ行こうとしない。店内を見て回っているアキラについて回るように、二メートルほど離れた距離から見守っている。貼り付いた笑みは作り物のようで、それが返って落ち着かない。この事実をあの女店主は、恐らく気付いていない。
「あの……」
「はい? どうされましたか?」
「恥ずかしい話、実はここを喫茶店だと間違って入ってしまったんだ。だからその、アンタには悪いが今日ここで買い物をする予定は俺にはないんだよ」
正直に白状した方がいい、今更ながらにそう判断した。嘘を言って雰囲気を悪くするぐらいなら、いっそのこと本音を告げた方が後味も悪くない。
それでいちゃもんを付けられても、どうせ今回の入店が最初で最後になるのだから、アキラは気にならなかった。
「そう……だったんですね」
あからさまに九十九楓が落ち込んだ。
これを見て罪悪感が湧かない訳ではない、が事実であるのでどうしようもできない。
「……それじゃあ、俺はこれで」
「……待ってください」
「ま、まだ何かあるのか?」
「実はそろそろお店閉めるんです」
「そ、そうか……」
「お願いですからせめて! せめて私のかわいい愛娘だけでも見ていってくれませんか⁉」
「は、はぁ……?」
「お願いします……店をオープンしたもののなかなかお客が来なくて。だけど私、一人でも多くの人に人形を……私の愛娘のことを知ってもらいたいんです! その良さを理解してほしいんです! ですから――」
「わ、わかったわかったから! 本当に何も買う気はないけど、見るだけでいいんだな?」
自分でもおかしなことを口走ったと酷く後悔している。だが、この女の必死さにアキラは気圧されてしまった。
見るだけならば、これを絶対条件にアキラは渋々と承諾した。途端の彼女の顔には笑みが戻る。子供のようにぱっと花を咲かせて、よほど嬉しいのだろう。
「あ、ありがとうございます!」
「ははっ……はぁ……」
――関係者以外立ち入り禁止と書かれた扉を一枚潜ると、まっすぐな廊下が続いている。
灯りは等間隔に設けられた蝋燭だけで、なんとも心もとない。先が見えないとなると、かなり奥まで続いていると推測できる。
あの小さな外観からでは想像がつかないほど広大にできていると知って驚くアキラを他所に、先行していた九十九楓がその足を止めた。
「着きましたよお客様――ようこそ、私のアトリエへ」
「いや、着きましたって……」
「あ、肝心なことを言い忘れていました。この扉の一つ、一つが私の愛娘達がいます。わかりやすく言いますと、この廊下そのものが展示室のようなものです」
「なるほど、理解した」
彼の空腹はもう限界だった。一刻でも早い食事を摂りたいと要求されて、拒む道理はどこにもない。作品を一つでも見れば、彼女も満足して解放してくれるだろう。
適当な扉をアキラは開ける。
――大聖堂を彷彿とさせるような内観。ステンドグラスの模様が陽光を浴びて美しいその模様を床に描く。
そして奥に設けられた祭壇の前では、誰かが跪いている。
とても変わった出で立ちをその女はしていた。今時、どこの世界を探しても鎧と剣で武装した女性など、まぁおるまい。コスプレというイベントであればまだしも、ここはイベント会場ではない。
何より、後ろにいる女は愛娘を見てほしい、と言った。ならば彼女は――
「――人、形……?」
「ふふふっ、驚きましたか? これこそ私のアトリエが誇る等身大の人形です」
「これもか⁉」
次々と彼女の口から明かされる事実に、アキラはただただ驚かされた。
たった数十センチの人形だけでも、その価格は十万円以上するというのに、等身大ともなれば更に倍はしよう。おまけにこの内観も然り。作品にはタイトルが振られている――【白百合の騎士姫】、この空間は正しく、彼女のためだけに用意された特大の世界なのだ。
お客がこない、とは言ったが儲けがないとは彼女も言っていない。
(嘘吐きめ……)
振り返れば、とてもいい笑みをした九十九楓と目が合った。凄いでしょう、と言わんばかりの得意げな顔が無性に腹立たしい。
「……いや、すごいよ。うん、本当に」
人形作りの腕前は、素直にアキラも認めざるを得ない。素人である彼の目でも、普通の人形とは違う何かが、この人形には確かに存在していた。
球体関節がなければ、本当に人間だと見誤っていた。
「――それじゃあ、俺はこれで……」
「えっ? 一人だけしか見ていってくれないんですか⁉」
「いや、そう言われてもだなぁ。俺は素人だし、どの作品を見たって結局は凄いとしか言えないと思うぞ?」
「それでも構いませんから!」
「アンタが自慢の娘を紹介したいって気持ちは、まぁわからないでもない。けどこれ以上は無理だ、俺にも予定があるんだよ」
「も、もう少しだけ! もう少しだけいいじゃないですか! ここに招かれたのもきっと何かのご縁……! お客様が私の愛娘の運命の人となってくれる、そんな予感がするんですいや寧ろそうなる運命だと私は信じてます!」
「俺に人形偏愛症はないぞ。それじゃあこれで!」
「あっ、お客様待って……!」
制止してくる九十九楓を振り切って、出口を目指す。追いかけてこないところを見ると、ようやく諦めてくれたのだろう、とアキラは安堵の息を静かにもらした。
――まったく景色が変わり映えしないものだから、まるで永遠と終わることのない道に迷い込んだかのような錯覚。
一本道なのだから、そのまま従って進めばよい。曲がり角はなかったと彼も記憶しているのだから、まっすぐと歩けばいい話だ。
だというのに――まるで先が見えてこない。先の部屋に着くまでに要した時間は三分も経過していなかった。体感時間であるから、多少の誤差は否めない、が限りなく近いとアキラには自信があった。
(……馬鹿馬鹿しい)
魔法などという非科学的存在を少しでも考えてしまった己を自嘲気味に笑い飛ばしてしまった。魔法だなんてものは、昔の人間が作り出した幻想であって、だからこそ創作という娯楽が生まれた。
魔法なんてものは存在しない、認めない。
「――ん?」
扉の一つがわずかに開かれている。
彼が目指すべきは出口であって、あの女が手掛けた愛娘ではない。寄り道する意味も時間もない、そうと頭では理解しているのに、心が拒んでいる。
気が付けば、ドアノブに手を掛けていた。
このまま中へ入ってはならない、そう第六感が激しく警鐘を鳴らしている。アキラは危機的状況に直面した時、直感能力が異様なほどに働く体質だった。この能力のおかげで、どんな状況下でも生き抜けてきたと自他共に認めている。
従わない道理はない、従った方が賢い選択である。
だがこの日、アキラははじめて己の直感を拒んだ。
「――――」
自然と手が、懐に伸びていた。
それはこの法治国家……日本で使うことはないだろう、と高を括っていた代物――P228、幾多の戦場を駆け抜けてきた愛銃にそっと目線を落とす。
「……頼むぞ」
――扉の向こうには、荒廃した世界がどこまでも続いていた。
戦争でもあったのか、かつては繫栄していたであろう大都市も、今や見るも無残な廃墟へと変わり果てている。
そこに一人佇んでいる少女は、とても儚げな顔をしていた。歳はまだ、十代後半ぐらいだろう。アサルトライフルが不相応なのも、その所為あってのことなのかもしれない。
タイトル――【鋼鉄の銃戦姫】……どんな思いを込めて作られたのだろう。
火のように色鮮やか赤色だ、無機質なガラスの瞳と目が合った。
――ぐらり、と世界が揺らぐ。
アキラはその場にて倒れ込んだ。急速に全身から力抜けて、立つことはおろか指一本さえも動かせない。
どんな原理かは、霞掛かっていく思考をいくら働かせたところで真実に到達はできない。しかし、あの九十九楓による仕業だということだけは、なんとなくながらも理解して――彼の必死に抵抗も虚しく、意識は深い闇の底へと堕ちていく。
「――――」
霞んでいく視界が最後に捉えたのは――とても嬉々とした表情を浮かべる、少女だった……。