第1話:懐かしき我が故郷
空港はまるでお祭りのように賑わっていた。
どこに視線を向けても、人が必ず映り込む。特に今日は平日と比べてずっと多い。
この光景は、彼にとっては然程驚くものではなかった。これ以上に人が多い場所をいくつも知っている。
家族連れや、見るからに未成年のグループなどが多くみられるのは、彼らが学生であるからだろう。夏休み……学生にのみ与えられる長期休暇を利用して、海外へ旅行したりするという話を聞いたことがある。
子供の頃に旅行をしたのは一度きりで、しかし決して楽しい物ではなかった。笑みを浮かべて談話にわいわいと花を咲かせている彼らが、なんだか微笑ましく思った。
空港から一歩外に出ると、熱烈な歓迎を彼は受けた。
文字通り、澄み切った青空には燦燦と輝く真夏の太陽が浮かんでいる。容赦なく照り付ける日輪は、アスファルトの地面を熱し、生物からは水分を容赦なく奪い取っていく。
冷房が効いて快適だったはずが、もう汗が滲み出てきた。それを吸って肌に張り付く衣服の感触が、実に不快感極まりない。
思わず舌打ちをして、彼は手の甲で流れる汗を拭うと近くにいたタクシーを捕まえた。
「すいません、ここまでお願いします」
「わかりました」
目的地を指定されたタクシーは、彼を乗せて走り出す。
――ようやく汗が引いてきた頃、窓の向こうで流れていた景色が変化した。
大小新旧、様々な建物が群集する町並みを同じ数ぐらいの人と車が行き交っている。
ただでさえ熱いのに、眩暈がしそうなほどの人の量だ。近くに行けば更なる熱気に襲われるのは、言うまでもないだろう。
「お客さん、着きましたよ」
「ありがとうございます」
仕事を終えて次なる稼ぎを見つけるべく早々に走り去っていったタクシーを見送って、彼は建物の中へと足を進める。
入店して早々に、彼には怪訝な眼差しが向けられた。
そこで働いているスタッフの反応は、ある意味正しい。何せ彼が足を運んだホテルは、ビジネスホテルの類ではない。大手企業の社長などが利用する、要するに超高級ホテルであった。
そこで働いているスタッフからすれば、やってきた彼はその手の人種には到底見えなかったに違いない。服装はおろか、全体より発せられる風格、どれをとっても彼はまだまだ若すぎた。
もっとも、どのように見受けられても、予約している人間であるのは事実なので、彼は堂々とフロントにて自身の名前を告げて予約票を差し出した。
「こここ、これは失礼しました!」
「お気になさらず。でも、あまり人を見かけだけで判断するのは止めておいた方がいいですよ――いつか自分の首を絞めることにも繋がりかねませんから」
「おおお、仰る通りです! 以後気を付けます!」
面白いぐらい動揺をしているスタッフと周囲の客の反応に、彼も釣られてくすりと笑った。
「――ど、どうぞ。こちらがお部屋になります」
「ありがとうございます」
困惑を隠しきれていないスタッフに案内された一室は、豪華絢爛の一言に尽きた。下品な装飾も一切なく、されど素人目ながらでも高級感を味合わせる内観は見事であった。
更に最上階というだけあって、そこから眺める地上も絶景。一泊だけで数万円もするだけの価値がここにはあった。
「さて……」
ちらり、と時計を見やれば時刻は午後三時を指している。夕食までにはまだ時間があり、かと言ってこの後の予定も特にはない。彼が生まれ故郷である日本へと帰国したのは、長年の仕事の疲れを癒すためである。
長旅の疲れが、ここにきてドッとやってきた。
荷物を適当に置くと、彼はそのままベッドへと身を投じた。柔らかく、心地良い香りに全身を優しく包み込む。
たちまち、眠気が彼を襲った。
重たくなった瞼がゆっくりと、閉じられていく。そのまま睡魔に身を委ねてしまおうとした。
瞼が、閉じられる。
――ぷるるるるるるるるるる。
「……誰だ?」
予定になかった乱入者によって、眠りは妨げられた。
忌々し気にディスプレイを見やれば、怒りもきれいさっぱりになくなった。それは彼がよく知る人物にして、数少ない友人の一人だからに他ならなかった。
懐古の情から自然と頬が緩む。
通話ボタンを押せば、受話口からどこか慌ただしくも懐かしい声が聞こえてくる。
「もしもし?」
『やっと繋がった! 心配してたんだよアキラ』
「久しぶりだな麻尋。その調子だと元気そうにしているみたいだな」
『僕はね。あっ、今って電話しても大丈夫かな』
「でなきゃこうして悠長に話してない――いいぞ」
『よかった――最後に話したのって、確か三年前だったね。それからも何度も電話したけど一向に繋がらなかったし、もしかして……って思ってたんだよ?』
「あ~……」
麻尋のいう三年前をアキラは思い出す。
三年前といえば、彼がある大きな仕事を担当していた頃だった。とても忙しなく、危険と隣り合わせだった日々をすごしていたが故に、外部からの連絡にいちいち反応を返している暇さえもなかった。
終わってから連絡を返してもよかったのだが、なんだか面倒になって放置していたことを、今になって思い出してしまったが、アキラにしてみれば今更な話である。
もっとも、あの時はどこか後ろめたさがあったからもしれない。
アキラと麻尋――生まれた時代も、住んでいる世界も正反対にあるこの二人が出会ったのは偶然だった。
六年前も、蒸し暑い夏だった。
仕事もなくオフであるというのに暑いというだけで苛立ちが最高潮になっていたところに、複数の男に絡まれている一人の日本人を見かけた。
男達は地元ではかなりの悪で、余程の愚か者でもない限り関わろうとしない。
あの日本人は、何も知らずにやってきてしまったのだろう。
平和ボケをしているからそうなる。日本の価値観を当てはめていれば手痛い目に遭う、彼はそう身をもってこれから学ばされる。
助ける義理はなかった。ただとても苛立っていたから、ストレスを発散するつもりで男達をボコボコにしてやった。
拳が彼らの血で赤く染まるまで殴り飛ばした男と不運にも出会ってしまったその日本人は、酷く怯えた様子でアキラを見ていた。そのことについて、彼は咎めたりはしない。
日本人の反応は至極当然すぎるから。一般的な価値観に当てはめれば、やっていることは過剰防衛と見なされる――日本であったら、の場合だが。
日本ではなかなかにお目に掛かれないであろう惨状に怯えたままの日本人を置いて、アキラは立ち去った。礼を言われたくてやったのではないし、苛立ちが少しだけ晴れてくれた。
――背後から、ありがとう、と掠れた声でその日本人は礼を言った。特に気に留めてなかったが、次に放たれた言葉にはさしもの彼も驚愕させられることとなる。
『――あ、あの! 助けてくれてありがとう! ぼ、ぼくは麻尋って言うんだ! そ、その……よかったらさ、ぼくと友達になってくれないかな!?』
予想外すぎるその一言に、間の抜けた声をもらしてしまった。この日本人の言っている意味が、まるで理解できなかった。
『――お前さ、変わり者とかって言われたことないか?』
類は友を呼ぶ――彼は人殺しではない代わりに、一般人とはどこか違う精神構造をしている。そういう意味では、同類なのかもしれない。
だが、決して悪い気がしなかったのも事実だった。
友達……それはアキラにとって、無縁に近しい概念であったからに他ならなかった。
懐かしい友人との久しぶりの会話ということあって、彼らの話は途切れることなく弾み続ける。
青かった空も茜色へと染められ、そこでようやくアキラは相当な時間が経過しているのに気付いた。
「って大分話し込んだな……」
『あはは、本当だね。とりあえず、君が元気そうだってわかってホッとしたよ』
「お前もな」
『でも……大変な時期に日本に来ちゃったね』
「え? それはどういう意味だ?」
『アキラは知らないかな? 今日本で起きてる怪事件のこと……』
「怪事件……?」
あぁ……、そういえば。アキラの脳裏に該当する記憶が蘇る。
アキラがこの事件を知ったのは、本当に偶然だった。他国が他国の事件を取り上げることは、そう珍しいことではない。
生まれ故郷である日本の怪事件が現在、どの国でも報道されている。その内容というのが、連続失踪事件について。
事件が発生したのは、ちょうど三か月前に遡る。とある男性が行方不明となった。その男は一般企業に勤めているサラリーマンで、何かしらの事件に巻き込まれるような人間でないと紹介されていたのを、なんとなくアキラは憶えている。
誘拐事件なんてものは、そう珍しいものではない。確かに事件性はあるが、命のやり取りが常である彼にしてみれば、そこまで特別なことではないのだ。
日本の警察は優秀だ、こんな事件はすぐに解決して終わりだろう、と判断し、それ以降アキラは麻尋に言われるまで忘れてしまっていたほど、この事件への興味を失っていた。
(まだ終わってなかったのか……)
『今日もまた新しい行方不明者が出たって報道されてたよ、今日だけでもう五十人以上だよ?』
「それは確かに不気味だな……」
『被害者の年齢層や性別もバラバラ、被害者同士の繋がりもまったく関連性がなし。未だに証拠の一つも出てこないなんて……』
「犯人はよほどの知能犯ってことだな。それだけに厄介な相手でもある。精神構造がそいつは一般人とは違う、だから普通ならやらない、やっちゃいけないことにも何の疑問を抱くこともなく実行できる。これほど厄介な人間はまずいない」
『サイコパスってやつだよね……。未だに解決されないから、現代の神隠しなんて言われて、みんな怖がってるよ……』
「そりゃまた、随分と的を射た例えだな」
『大丈夫だと思うけど、アキラも気を付けてね?』
「そうだな。どんな奴が相手かはわからないが、用心するに越したことはない。麻尋、お前も十分に警戒しておけよ?」
『うん、ありがとう。それじゃあ、切るね』
またな、と言い残しアキラは電話を切った。
そのまま首だけを動かして、時計の方を彼は見やる。
時刻はちょうど午後五時を示していた。
「……神隠しね」
神隠し――それは古来日本より発症した、誘拐の別称。科学が発展していなかった当時、それまで超常現象の類はすべて神や悪魔による仕業であると考えられていた。病魔に対して祈祷で祓う、などと言った無益な行いがいい例である。
神隠しも、人身売買の商品として売り飛ばしている人攫いが原因である。中には赤子を盗み忍として育てていた、などという事例もあった、とそんな話をアキラはどこかで耳にした憶えがあった。
「――馬鹿馬鹿しい」
神隠しなんてものが現実に起こり得るとは、アキラはまったく考えていない。確かに怪異事件である、それは彼も素直に認めている。しかしどんなに難事件であろうと解決できない事件なんてものは存在しない。
日本の警察に過信するわけでもないが、少なくとも他国に比べると優秀なのは間違いない。
一刻も早い解決をわずかばかりに願うアキラは、そのまま部屋を後にした。
電話が終わった辺りから、彼に巣くう腹の虫が強い自己主張を続けていて、アキラはそれを満たしてやる必要がある。要するに、かなりの空腹状態だった。
それもそのはずである。アキラは日本に来るまでの長旅で疲労していた。極度の疲労は食欲を軽減させる、故に彼は昼食を取らぬまま、今までをすごしてきていた。
そのツケが時間を経て、彼の身に起きたのである。