第9話
「…俺、昔はなんていうか、『すごい人』にならなくちゃ、ってずっと思ってたんです。父さんとか母さんとか、それこそ兄貴とか…あっ、向こうの世界だと、姉じゃなくて兄なんです。冬基っていうんですけど」
言葉を紡ぎ始めた俺を、彼女がじっと見つめる。その瞳には、うっすらと不安がにじんでいるようだった。
「でも俺、結局うまくできなくて…ほんとはこうしなくちゃ、って思ってるのにどうしてもできなくて、俺、ダメなやつだなぁって」
「…それは、今でも、ですか?」
彼女の問いに。
「…はい」
と答える。どうやら彼女は落胆したようだった。彼女もきっと、俺と同じような目標を持っているはずだ。そして、並行世界…別な可能性を生きた自分でも、それを成し遂げることはできなかった。それが、自分という存在の限界なのだ。そう、考えているのだろう。だが、かまわず俺は続けた。
「だから今でも俺は、俺のことを好きにはなれないけど。でも俺は…もう、俺のこと、責めたりしてないです」
「え…」
彼女が、思いもよらないといった風な声を漏らす。やはり彼女は、いまだに折り合いをつけられず、かといって吐き出すこともできないまま、苦しみをずっと抱えていたのだろうか。
「結局これも、兄貴に教えてもらったことなんだけど…世の中には、『あるべき姿』なんてない、あるとしたらそれはただの、『あってはならない姿』の裏返しなんだって」
そう、あの日の兄貴は、自分も涙目になりながら、懸命に俺に伝えてくれた。
「確かに勉強できたりスポーツできたり友達たくさんいたりって、すごくいいことなんですけど、『そうでなくちゃ許されない』ほどのことなんかじゃない…だからそれは、『できなくちゃいけない』ことなんかじゃないんだって」
「例えば、『他人には優しくなくちゃいけない』ってのは、ほんとは『他人を傷つけちゃいけない』ってことで…だから、誰かを傷つけないで済むのなら、わざわざ優しくまではできなくていいんですよ」
「『できない』ことは、それだけで『否定される』べきことじゃない、胸を張っていいんだと」
ここまで話して、改めて彼女の方を横目で伺う。しかし彼女の表情は、どこか沈んだままだった。
「…でも…」
彼女は暗い調子でつぶやく。
「『できない』ままでいいはずない、何もせずに諦めるのは、それこそ『あってはならない』と思うんです。今の私を認めたとしても、未来の私のための努力は続けていかなくちゃって思います。それでダメなら、そのときに現実を受け入れればいい。けど…」
「『あるべき姿』があるから、それに向かって努力をすればよかったのに…それがまぼろしなら、『みんなみたいにできなくていい』なら、私は『どんな姿になればいい』んでしょうか。それがわからないままだったら…私は、ただ逃げているだけみたいで…」
膝に顔を埋めながら、少しずつ、自分の心を吐き出していく。ここで、あの日の兄貴のように、俺はニッと笑って見せた。
「それこそ、『好きに決めちゃっていい』んですよ」
彼女の視線が、再び俺に向き直った。
「『あるべき姿』がないからこそ、『ありたい姿』は自分で決めていい。今まで通り誰かを目標にしてもいいし、新しい目標を立ててもいい。もちろん自分で決めたからってうまくいくわけじゃなくて、そこでも失敗とか挫折とか、あると思うんですけど…でもそれは、今あなたが抱えてる苦しみとは、きっと違うものだから」
「俺が、俺なりに考えて、こうなりたいって決めたから。だから、そのすべてに向き合おうって思えるんです」
彼女は黙って聞いてくれていた。まっすぐに、俺の方に向き合って。
「あの、ほかにもいいことがあってですね、『俺がなりたいわけじゃないから』って、いろいろなことを割り切れるようになるんですよ。他人から何言われてもどう思われても、よくてそうなれたらいいなーってくらいのことなんだから、そうなれないからってケチ付けられる筋合いはないぞ、って」
「俺にとって何が大事なのかがわかるようになるから…だから、ほんとに大事なもののためにだけ頑張ってみようって、そんな気になれるんです」
ここで俺は話を区切った。そのまましばらくは、ただ静かな時間が流れていく…少しだけ乾いた、秋の風が吹き始めていた。