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遺書

作者: 朱辻 灰里

 すがすがしく晴れた冬の空に、鳥の声がさやかに響き、屋根の瓦さえ静謐な感じがする。十数年になるか・・・・私は庭にたち、通いつめた日本家屋を見渡す。常緑の垣はこころなしか重く、陰をおとしていた。


 ああ、もうこの世に先生はおられないのだ。


 門の前で、「先生~」と声をかけると、縁側のほうからあらわれて、何も言わずに鍵を開けてくれた。

 まぶたを閉じると幾度となく繰り返された日常のひとこまが、映る。


 先生の奥さんが葬儀屋説明に青白い顔で単調に応えている。

 通夜だというのにぞくぞくとやってくる親族や弔問客は、悔やみの言葉もほどほどに明日の葬式の用意を手伝い始める。

 先生は編集から作家になった人だったため、付き合いは広く、多岐にわたっていた。こまめに人の面倒をよく見ていた。


 私が先生に教えを乞うようになったのも先生が担当していた新人賞がきっかけだった。私が中卒という経歴をひっかけて他の人から責められたとき、「彼の経歴ではなく、彼の文章を見たまえ」と普段声を荒げぬ先生がおっしゃったとき、あふれそうになった涙を必死でごまかした。


 先生は、この世にいらっしゃらない。


 私は先生のおかげでここまで文章を書いて生きてこられたのです。


 無駄にけなさず、無駄に褒めない。書き手を納得させる慧眼は誰からも信用を得ていた。作家になってからも、自分に戒めを掲げ、決して無駄な言葉を織り込まぬ人だった。

 それがいっそう私が特別なのだと思わせてくれた。


「右田くん。ちょとこちらへいらして」


 縁側から奥さんの声がして行ってみると、先生がいつも使っておられた机の前から奥さんが手をこまねいていた。


「はい」


 靴脱ぎ石にさっと靴をそろえて振り返ると、少しほほえんでさらに手をこまねいた。


「あなたに渡しておきたいものがあるの」


 奥さんはすっと私の前に封書を差し出した。端正な先生の字で私の名前が書かれていたのに、手荒く封が破られていた。

 封書に目を奪われている私の胸に封書をおしつけた。白く細い指先が震えている。


「いけないことだと判っていましたが、読ませていただきました」


 それだけ言うと奥さんはきびすをかえして親族の和に向かっていった。奥さんの黒羽二重の背が消えるまで私は見送った。


 私は、手紙を読まれた憤りよりも、先生をなくした奥さんに同情すら感じていた。

 病でなく、事故でなく、他人に奪われるでなく、自ら命をたつことで絶縁された奥さんに、先生において行かれたもの同士悲しみを分かち合いたいとすら思っていた。

 奥さんに握りこまれた手紙を手で伸ばしながら、一人に慣れる場所をさがした。先生が最後に残してくださった言葉をひとりで感じたかった。


 縁側から庭へおり、白い椿の奥にある雪見燈籠の裏へまわる。

 しわしわになった手紙を開いた。先生の几帳面な字が明確な意思を持って飛び込んでくる。



 君がこの手紙を読むころ、私はこの世にいないでしょう。だからこそ言えるということがあるのです。

 ここに書いてあることは、あなたを不快にさせるかもしれません。私に怒りすら覚えるかもしれません。でも私はあなたに知って欲しかったのです。


 私は君の作品を初めて読んだ時のことを今もはっきりと覚えています。巧みではないが、力のある素直な筆致。物語の意思が感じられる前途有望な作家であると思いました。新人賞こそのがしましたが、あなたが、私に与えた影響は多大なるものでした。


 あなたに会ってからはよりいっそう、そうでした。あなたは私の声に耳を傾け、私にまっすぐな目をむけて、それに従いました。私が持つ全ての知識をあなたに与えたら、どんな花を咲かせるのか。熱中していたのです。


 それからというもの、あなた以外の原稿が、かすんで見え、平等に原稿を読むことすら困難になるといった具合でした。ついには、あなた以外の原稿をよむのが億劫になっていました。


 私はあなたの原稿から逃げるために、全ての原稿から逃げた。これは私の最大の間違いでした。このとき逃げなければ、私は生きていたかもしれません。


 しかし、私は自分の小説を書きました。これまで求めてきた、至高の作品を書くことに決めたのです。書いているうちは、あなたの原稿のことを忘れられました。ひたすら書きました。自分の身体を粉にするようにして。

 小説への異常な執着ぶりに、妻は私を止めました。出版社に勤めていたころも諌めはしましたが、寝床に押し付けるようなまねをするようなことはありませんでした。そういえば私の小説への向かい方をわかっていただけるでしょう。何度か家に来たあなたを追い返したこともありましたね。

 それがある日、熱狂から覚めたのです。そのころには、身体は病に侵され、立つことすら危うくなっていました。私は、床に臥すことが多くなりました。私は自分の今まで身を削って書いてきた小説を読み返していました。あなたと会う前の私のように。


 実に冷静に、自分の書いたものを読んだのです。

 私はぎょっとしました。

 あなたから逃げたつもりがあなたに埋没していたのです。

  小説には、私だけが判る形で、あなたがいた。風景に、情景にあなたは溶け込み、行間にすら存在したのです。

 妻はすでに私が何かに取りつかれていることに知っているようでした。書いていた私は妻の様子など目にとまりませんでしたが、病床についてからはそれがわかりました。

 さびしく、諦めたような目でした。

 妻の看病が行き届けばいきとどくほど、私の身は裂かれるようでした。

 私は全てから逃げたのです。



 手紙を持つ手が震えた。


 先生、私の小説にも先生への思いが常にあったことをご存知でしたか。解っておられたはずです。

 なぜ、先に逝ってしまわれたのですか。知っていたから逝ってしまわれたのですか。


 私は白い椿にすがりつきながら嗚咽をもらした。

 涙を拭き、手紙を握り締めた私は、縁側から奥座敷に戻った。


「おい、何してるんだ。お前が一番先生に世話になってたじゃないか」


 先輩の作家が私の背を押す。私が先生の棺の方を涙をこらえながら見ると、青い光を宿した奥さんの目が、じっと私を見つめていた。


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