1. 塵と屑 1
*
東京。5月3日。午後19時26分。遠坂星子の母親、遠坂恵美は国立東京医療研究センターへ呼び出された。まだ肌寒かった為、恵美はベージュのトレンチコートを羽織っていた。
つい先日、娘は手の施しようがないと病院から診断を下された。それは、自分の目でも確りと確認をした。首と胴は別れ、皮膚が裂かれ赤黒い血がこびりつき、全身青く変色している。
それでもこの状態はまだマシな方だと医師に告げられた。何故なら首と胴は、電車に轢かれたにしては随分と損傷を受けずにいたからだ。母にとっては何をもってマシと言っているのかが理解出来なかった。実の娘の首と胴は離れて帰ってきた。しばらく何も喉は通らず、不眠不休が続いた。
葬式の準備はもう少し待ってくれと医師は言う。娘の体を調べたいというのだ。娘の体を好き勝手弄り回されるのは嫌だったが、この研究で新たな医学の発展に繋がるかもしれないと医師は豪語した。疲労困憊状態だった恵美は、はいと答えた。
それから数日が経ち、医師から電話がかかってきたのだ。一体何の用事があるというのだろう。何があろうとどうでもいい。星子は既に死んでいる。今更難解な医学用語を耳にした所でどう反応をしろと言うのだろうか。
大きな建物に足を踏み入れると、清潔な院内にはまだちらほらと患者の姿が見えた。受付に向かう前に、遠坂さんと嗄れた声をかけられて顔を上げた。縁のない眼鏡をかけた男が立っていた。ポマードで硬く後ろへ固定している髪には、まばらに白髪が混ざっており、顔の肉はブルドックのように垂れ落ちて随分と老けて見える。白衣の左胸には齋藤康徳と名札がぶら下がっている。
「突然呼び出してしまったのに、わざわざお越し下さりありがとうございます」
「いえ、そんな……。あの、何のお話でしょうか」
「娘さんの事で少しお話が」
「え、星子に?星子が何なんですか?」
「お話は後で。とりあえずこちらへ来て頂けますか?」
齋藤は掌を院内の奥へと指して、誘導をした。
素っ気ない通路を歩きながら一人娘の事を考える。恵美という女は、年よりもいくつか若映える女であった。主人と別れてからは女手一つで星子を育ててきた。昼も夜も働き、それなりに苦労をして育ててきたつもりだったが、星子とは余り会話をした記憶が無かった。最後に印象の残った星子の姿といえば、仕事へ行く前に見た、鏡の前でぼんやりと座っている星子の姿だった。恵美はその時、自分の実の娘である星子が一体何を考えているのか分からずに、心底不思議な生き物のように思えた。恐らく別れた主人に似ているのだろう。主人は元々、妄想癖があった。幼い頃、寝る前に星子によく御伽噺を聞かせていたのもそうだ。
星子は主人の話を強く信じていたし、母である恵美の、世間一般で言われる常識云々についての話などは耳を貸さなかった。
「あの、先生。話というのはどういった事でしょう」綺麗に磨かれた床を靴底で叩く音が、やけにはっきりと響く。齋藤は少し振り返ってから再び前を向いた。眉を寄せて神妙な面立ちの横顔が見えた。
「非常に説明しがたい事が……娘さんの体には起きています」
「……というと?」
「実際に見て頂いた方が早いでしょう」
齋藤はとある部屋の前で立ち止まると、カードキーを翳した上で、指紋認証を終え、ようやく自動で開いた扉へ入った。
「こちらへどうぞ」
齋藤の後ろをついて部屋の中に入っていく。すると恵美は思わずひっと悲鳴を漏らした。
「驚くのも無理はありません」
眼鏡を指で持ち上げながら冷静に告げる齋藤を放り、恵美はその場で尻もちをついて全身を震わせた。目の前には大きな透明な筒の中の培養液に漬けてある娘の胴体と生首が浮かんでいた。
しかもただの胴体と生首ではない。無惨だった傷痕は全くなく、まるで人形のように肌が美しく再生しているのだ。それに、生首の口には酸素吸入マスクが取り付けられている。
「一体、一体どういう事なの?娘に何をしたの?」
「我々は何も。ただバイ菌が入らないように液につけているだけです」
恵美はまだ、生きているかのような娘の生首へ向かって呼びかけた。
「星子!聞こえる?星子!」
「信じられない事ですが、娘さんはこのような状態にも関わらず、脳の一部が機能しているのです」
「それって……、星子はまだ生きてるって事なの?」
齋藤は眼鏡を指で押し上げて頷いた。恵美はそれを聞いて両方の目から涙を流した。
「星子、あんた私の言葉が聞こえるの?」
「娘さんが貴女の声を聞こえているかどうかはまだ分かりません。しかし、呼びかけると僅かに脳の活動領域に反応が見える。そして娘さんの瞼をよく見て下さい。眼球がきょろきょろと動いているでしょう。これはね、お母さん。人が夢を見る時と同じような反応なんです」
「じゃあ、星子は夢を見ているって事ですか?」
「恐らく。断定は出来ませんが。それに娘さんの細胞は自ら再生を試みようとしている。こんなものは我々でも見た事が無い。もしかしたら、娘さんはまた生き返って、正常な生活が出来るかもしれません」
「星子が……生き返る」恵美は信じられないといった顔で、星子の生首を見つめた。
「これは素晴らしい事ですよ。この謎をつきとめたなら、医学界は急激に飛躍するでしょうな。我々にもう少し娘さんを預けてもらっても構いませんか?」
「はい……」と、恵美は放心状態で返事をした。目の前で起きている事は現実なのだろうか。娘が生き返るなど。
「ありがとうございます。お母さんには、度々こちらに来て頂き、娘さんに呼びかけて頂きたいのです。何か記憶を呼び覚ますような、思い出の品などがあればそれをお持ちになって貰って構いません。今日はお忙しい中、わざわざすみません」齋藤は頭を下げた。
「いえ、こちらこそ」恵美もつられて頭を下げる。そして病院を後にした。
星子が、娘が生きている。
「これは、奇跡だわ」
そう独り言を呟くと、長い黒髪を揺らして夜を明るく灯すビルの間へと歩いていった。




