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第五百七十話 アプシントス

 イルアは、わたしたちを連れて高原を歩いていく。


「結構遠いんだね」


 わたしが訊ねると、イルアは歩きながら答える。


「もう近い」


 わたしたちはイルアに連れられて、草の中を分け入っていく。


「ここだ」


 そこには、ひとすじのきれいな水が湧き出ていた。


「きれい……」


 わたしはつぶやく。

 水は透き通っていて、きらきらと陽の光を反射している。


「あれがアプシントスだ」


 イルアの言葉に前方を見やると、


「あっ」


 青い花が咲いていた。


 空の青より深いその色。晴天の蒼とは異なり、夜明け前の湖底のように濃い。

 わずかに紫を帯びた青が光を吸い込み、静かな輝きを放っている。


「ここがアプシントスの群生地か」


 リーゼロッテは地図を見ている。


「われわれだけでは、ここにたどり着くのに何日もかかったかもしれないな」

「見て。あんなにたくさん……」


 セレーナがため息をつく。

 一面、アプシントスの青。風に揺れ、波のように煌めいている。


「たくさんあるだろう」


 イルアは自慢げに言う。


「これが欲しかったんだろ?」

「うん。ありがとう、イルア!」


 わたしがお礼を言うと、


「礼なんか言うな、と言っただろ」


 イルアはまた複雑そうな表情を浮かべる。


「さっさと摘めよ」

「うん。ちょっと待ってね」


 イルアに言われ、わたしたちはアプシントスを摘みはじめる。




   ◆




「なあ……」


 花を摘んでいる途中、イルアがセレーナに話しかける。


「なにかしら?」

「あのさ」


 イルアは、ちょっと躊躇しながら、言う。


「昨日の夜、歌っていた歌、歌ってくれよ」

「歌?」

「いや、えっと……お前たちが摘んでいる間、僕はヒマだからさ」


 イルアは頭を掻きながら言う。


「いやだったらいいよ別に」


 セレーナはくすっと笑って、


「いいわ」


 そう言うと、歌い始める。


「♪森のさざめき、鳥の歌、 あなたの耳には届かない……♪」


 セレーナの透き通った歌が、草原を流れる。


 わたしとリーゼロッテは、目線を合わせ、微笑む。

 イルアは、アプシントスを摘みながら歌うセレーナのとなりに座って、目を閉じている。




   ◆




「これだけあれば充分だよね」


 ずっと中腰だったわたしは、腰を叩きながら、


「それじゃ、帰ろうか」


 そう言ってイルアの顔を見て、はっとする。


「あ……」


 わたしの顔を見て、イルアは気まずそうに顔をそむける。


「なんだよ、べつに寂しくなんかないぞ」

「うん、そうだよね」


 わたしはイルアの肩に手を置いて、言う。


「また遊ぼうね」

「いい加減なこと言うな」


 イルアは口をとがらせる。


「もう来ないんだろ」

「そんなこと……」

「知ってるぞ」


 イルアは吐き捨てるように、


「魔族と人間の間にいざこざが起きてること。……もうすぐ戦争になる」


 こう言う。


「大人はうそつきだ。人間も……魔族も」


 胸がギュッとなる。


 友だちがいない、イルア。親も遊んでくれない、イルア。

 彼がどんな思いで、わたしたち人間と遊んでいたのか。


 わたしは言う。


「人間と魔族が仲良くできるようになったら……、また遊ぼう?」


 イルアの肩が、ピクッと震える。

 心に、一瞬、希望が射したみたいな気がする。


 けれど、結局、彼は振り返らずにこう答える。


「そんな日は来ない」


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