第六章 伴奏は、楽しい。
真に言われた通り、涙が止まるまで音楽室の廊下にいた。
幸い、一時間目はどこのクラスも音楽室室を使わないようで、誰にも見つからなかった。
教室に戻ると、もう一時間目が終わるところだった。
先生にいくつか質問されたが、私が力なさげに「はい」「すみません」しか言わないのを見ると、諦めたように席に戻るように指示した。
席に座るときに、後ろの席をちらっと見ると、黒板の文字をノートに写している拓と目が合った。
私が微笑むと、相手はほっとしたように笑って、またノートに視線を戻した。
私には、それだけで拓が全てをわかった上で心配してくれていたことに改めて気づけた。
もう、十分だった。
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そして迎えた本番当日。
「ヤバイ、ヤバイ、遅刻する!」
「何時集合?」
「7時半!」
「え⁈あと10分しかないじゃない!学校まで歩いて行くのに20分くらいかかるのに…
仕方ないわ。今日は車で送ってあげる」
「やったあ!お母さんありがとう!」
「琴葉、楽譜持った?」
「あ!ピアノの上に置きっぱなし!」
…そんなこんなで、卒業式に向けて車は出発した。
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「琴葉」
「なに?お母さん」
信号で止まったときに、不意にお母さんが口を開いた。
「…今日は落ち着いてるね」
「あー、なんでだろ。合唱コンクールの時は、賞取りたかったからかな。クラスの方の最優秀賞」
「今日は賞がないから?」
「そういうこと」
「琴葉」
「なに?」
なにか言おうとしているのは、わかるけどその次が全然続かない。
「……」
「どうしたの?」
「…琴葉はやりたくてこの役目を引き受けたわけではないってことはわかってる。だけど、やりたかった人もいるんだから、その人たちの分も精一杯伴奏してきてね」
この人もだ、と思った。
この人も私のステータスメッセージを読んでしまったんだ。
もうとっくに書き変えたけど、一度載せたことは取り消せない。人の記憶に残ってしまう。
「…わかった」
もう、私の心には迷いがなかった。
全力で演奏するだけ。もう誰のためでもいい。
とにかく、演奏したい。
あと約一時間後に想いを馳せていると、車が学校の近くのコンビニで止まった。
「琴葉」
「なに?」
車から降りて、運転席の方に振り向く。
「…自信持ってね」
無言で頷くと、車は静かに出発した。
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AM8:50
体育館の時計が現在の時刻を表示してる。
「卒業式って、9時からだったよな?」
後ろの席から、拓が聞いてくる。
「確か、そうだった」
拓の方に振り向いて、答える。
ほんとうは、伴奏の後ろにソプラノがいるんだけど、拓は卒業式の送辞を読むらしくて、ステージに出来るだけ近い伴奏の真後ろに座っていた。
実を言うと、今まで大切なときに近くにいてくれた人が一緒にいてくれるだけで心強い。
「緊張してるか?」
「…少し」
「まあ、仕方ないか。俺も式が始まったら心臓バクバクになると思う」
「頑張ってね」
「お前もな」
AM8:55
「京さん、琴葉さん、スタンバイお願いします」
嶋田先生に言われて、椅子から立ち上がり、目の前にあるピアノの椅子に腰掛けた。
指揮者の方も指揮台の隣に立って準備する。
ちなみに、このピアノは、合唱コンクールのような大きいグランドピアノじゃなくて、電子ピアノにスピーカーを二つ繋いだものだ。
楽譜を広げて、深呼吸する。
緊張のせいか、吐く息が震えてしまった。
ーどうしよう。手も震えてきた。
今日は合唱コンクールよりも落ち着いていると思ったけど、直前になってパニックになってきた。
ーヤバイ。弾けない。前奏から失敗するかも。
いつもの悪い癖。大事なときにネガティブになる。
「だーいじょうぶ。琴葉ならきっとできるって」
これは、拓の声?
思わず拓の方を見ると、送辞の原稿を読んでいて、こちらには見向きもしなかった。
ーじゃあ、幻聴?
「だから、卒業式の伴奏やめちゃわないで。私が…卒業式で琴葉の伴奏を聞きたいの!」
今度は、祐希?
でも今、祐希は卒業生だから外で待ってるはず…
「なんでもやってみりゃいいじゃん。少しくらい失敗したって、主役じゃないんだからあんまバレないだろ?」
「伴奏って、ほんとに楽しいんだぜ?大人数が頑張って歌ってる裏でもっとその歌を盛り上げてる。それってなんかすごいことじゃねえか?」
これはあの日、真から言われた言葉だ。
いくつもいくつも伴奏が決まってからの、励まされた言葉が脳裏に浮かぶ。
それとともに、少し落ち着いてきた。
もう一度、深呼吸する。
ー大丈夫。私は一人じゃない。
「伴奏だったら自分が一番うまいって自信持てよ」
「…自信持ってね」
今度は、うまく息を吐くことができた。
AM9:00
『ただ今より、第三十回、卒業式を始めます』
指揮者の華原さんが指揮台に立つ。
自分の手を見ると、手の震えはいつのまにか止まっていた。
『卒業生、入場』
華原さんが、手をあげる。
ー伴奏は、楽しい。
私は、そのことを証明するために、演奏し続ける。
これから先も、ずっと。