Ⅸ 強襲
堪らなく幸せな時間だった。同時に、どうしようもなく悲しくもあったけれど。
次の日。ハルヨシの部屋で目覚めたシェリーは涙の残る頬を拭って、顔を洗いに出た。
ベッドには既にハルヨシの姿はない。隣で眠られていたらそれはそれで困ってしまうし、照れてしまうから別に構わないけれど、少しだけ寂しかった。
「おはよう、シェリー」
「あ、お、おはよう、ございます……」
「身体は辛くない? 不調があるようなら、回復するまで待つからね」
あんなことをした翌日だというのに、ハルヨシは既にいつもの調子を取り戻していた。
動揺していた様子など最早微塵も見えない。なんだか、自分だけが意識してしまっているようで余計に恥ずかしくなったシェリーは、消え入るような声で大丈夫です、とだけ返した。
顔を洗い、服を着替えてから朝食の準備をする。大丈夫、と答えたからには、ハルヨシはきっと、今日にでも殺して貰おうとするだろう。
これが最後の食事になるかもしれない。そう思うと、シェリーはどうしても、いつものように対面で食べる気にはなれなかった。
配膳を終え、腰掛けたハルヨシの隣に座ると、彼は僅かに身体を強張らせた。
「……ハルヨシ様?」
「うん?」
首を傾げて見せる彼が、僅かに椅子を横にずらしたのを、シェリーははっきりと見た。
隣に座るハルヨシの顔を覗き込む。彼は分かりやすく顔ごと視線を逸らすと、所在無さげに林檎を齧った。
あからさまなその態度に、思わず笑みが溢れる。
「……良かった、私だけ、気にしているのかと思いました」
「頑張って取り繕ってたんだよ。百も超えてるのに、情けないだろう、こんなのは」
どこか拗ねた様子で呟いたハルヨシは、笑みを浮かべるシェリーに目を向けると、彼女の瞳が幸福そうに輝いているのを見て、溜息を落とした。
「……愛される、というのはこうも緊張するものなんだな」
「そう、でしょうか」
「ああ。私を愛してくれたのなんて、それこそ母くらいの者だったが……それとも違う感じだ」
ぼんやりと呟く彼が、これまで何一つ動揺することなくシェリーを脱がせたり、身体に触れたり出来たのは、薄々察していても実感がまるで無かったからだろう。
彼は度々、興味の有無が激しく切り替わることがあった。感情のスイッチを切り替えるかのように話を飛ばしたり、急に距離を詰めてきたり、かと思えば大した感慨もなさそうにしたり。元々の性質がそういうものなのだろうが、それは周りに対してだけでなく、彼自身の感情に対しても同じようだった。
実感してしまった途端、狼狽えたり、困ったように首を傾げたりするハルヨシの姿を、もっと見ていたい。そう、心から思う。
けれども、それは望めないことなのだ。幸せに浸るシェリーの心に、ハルヨシの問いが刺さった。
「それで、いつにしようか」
「……夕日が沈む頃に」
先延ばしにしようとした訳ではない。けれども、彼を殺さなければならないのだとしたら、あの燃えるような赤い空の下が良いと思ったのだ。
シェリーの返答に、ハルヨシは頷いた。楽しみにしてるよ、とまるで逢瀬の約束でもするかのように笑いながら。
最後の日だ。この日を、最上の物に出来るよう、精一杯努力しよう、とシェリーは決意した。
――――甘い空気が一変したのは、その時だった。
シェリーの手を取ったまま、ハルヨシが勢い良く立ち上がる。引きずられるように立ち上がったシェリーは、声を上げることもできなかった。
「誰か入り込んだな」
ハルヨシの声が低く、鋭く響く。アルフレッドを喚び出し、顔の無い式神を幾つか生み出した彼は、シェリーを抱え、窓から外を覗き込んだ。
その腕に抱えられたシェリーも窓の外を覗き込む。そして、その光景に目を見開いた。
――――庭が燃えていた。
美しい、白い薔薇たちは、見たこともない青い炎に包まれて次々と焼け落ちていた。
明らかな異常事態に息を呑む。すぐ後ろで、ハルヨシが苛立たしげに大顎を打ち鳴らす音が聞こえた。硬質な音が止み、低く這うような声が響く。
「祓魔師まで連れて来るとは、用意周到なことだ。勝手にやってきてずかずか入り込むのは領主と変わらないな」
「あれは……?」
「ウィンゲルムの所の輩だろう。口止めに国一つ買える希少な鉱物を贈ってやったんだがね、……大方、欲に目が眩んでやってきたってところかな」
瞬く間に燃え広がる炎の奥、本来ならばハルヨシの施した術でまともに入ってくる事もできない筈の門は破壊され、そこには五十を超える人間が並んでいた。
アルフレッドが素早く庭へと躍り出る。他の式神を引き連れ、燃え盛る庭を真っ直ぐに駆け抜けて頭を狙いに行く。何やら叫んでいる輩の攻撃を避け、瞬く間に切り込みに行く彼の姿を見やったハルヨシは、踵を返す。
シェリーは抱えられたまま連れられることになった。向かう先は裏口だ。深い森に面したそこから入り込む輩は、仮に居たとしても少ない。
「は、ハルヨシ様?」
「このままじゃ屋敷ごと燃える。私は死なないから構わないけども、君は違うからな」
扉を蹴破るようにして裏口に向かう。横抱きにされたシェリーは落ちないよう、彼の首に抱きついた。
ハルヨシの腕がしっかりとシェリーを抱え直す。片手を空けた彼は裏口の鍵を開けると、広がる森へと躍り出た。
深く広がる暗い森。まだ日は高いというのに薄暗いそこには、裏手からも入り込んでいたのだろう、何人か、門に居た輩と同じ服装の者が居た。
「よりによって今日来るんじゃないよ、全く!」
「ハルヨシ様! ナイフが――!」
金属音が響く。長い袖口に隠されていたナイフがハルヨシを狙って放たれ、それを彼の手が当たる前に弾いた。
革手袋が裂け、その下から硬い表皮に覆われた手が現れる。大顎に引っ掛け、手袋を脱ぎ捨てたハルヨシの前で、祓魔師達は吐き捨てるように口を開いた。
「化け物め! ウィンゲルム伯爵を襲っただけでは飽き足らず、そのような若い娘まで……!」
「先に襲ってきたのは伯爵様の方だけれどね。それにこの子はうちのメイドだよ」
「黙れ! 人に寄生し食い物にして生きる化け物め!」
「駄目だ、話が通じん」
心底呆れた調子で呟いたハルヨシは、シェリーを抱えたまま、―――跳んだ。
地を蹴る音すら聞こえない。シェリーの視界が反転する。囲むようにして立っていた男たちを超え、着地したハルヨシが晒した片手についた血を払うと、後ろで人の倒れる音が聞こえた。同時に、幾つかの悲鳴も。
ハルヨシの肩越しに見やったシェリーの視界には、五体満足ながらも蹲って呻く祓魔師達が映った。けれどもそれらは、瞬く間に遠くなっていく。
音もなく走るハルヨシへと目線をやると、彼は小さく苦笑した。
「流石に殺しちゃいない。極力、食べないものは殺したくないからな」
「……では、あの人も、」
「ウィンゲルムは別だ」
ぶっきら棒に切り捨てたハルヨシは、慣れた様子で道にもならぬ道を駆けていく。どこか、目的地が決まっているようだ。
森の奥へ奥へと向かっていくハルヨシにしがみつきながら、このまま何もかも有耶無耶になればいいのに、とシェリーは密かに願った。