Ⅶ 願いは非情に紡がれる
ハルヨシは、案外甘党だ。案外、という言い方は少し間違っているかもしれない。
彼はスズメバチを模した物の怪と人の『混ざりモノ』である。完全に虫の性質を持つわけでも、人の性質を持つわけでもない彼をどちらかにはっきりと分類することなど不可能ではあるが、逆を言えばハルヨシはどちらの性質も持ち合わせているといえた。
スズメバチらしく、花の蜜や果実を好ましく感じる部分があるのだ。
「ハルヨシ様! すいかですよ!」
冬を越え、春を過ぎてすっかり暑くなった頃のこと。
結局詳細を教えて貰うことも無く終えた『食事会』の記憶も薄れ、ただただハルヨシと過ごす生活に日々喜びを噛み締めているシェリーはその日、ひとたまの西瓜を抱え、書斎に閉じこもるハルヨシを訪ねた。
「うん? おや、本当に西瓜だ」
分厚い古書に目を落としていたハルヨシが、顔を上げる。シェリーの腕に抱えられた西瓜を見とめた彼は、本を脇へ寄せると興味深げに立ち上がった。
革手袋の指が軽く西瓜を叩く。身の詰まった音を聞いたハルヨシは、満足そうに頷いた。
「良い西瓜だね」
「はい! 品種改良?というので、前の物より甘くなっているんですって!」
「ほうほう、それは楽しみだ。いつ食べようか? 私はこれを日が沈む頃に食べるのが好きだな」
「じゃあ、すぐに用意します」
窓から外を覗く。緩やかに夕陽とへ姿を変えつつある太陽に、シェリーは一礼し踵を返した。
部屋の外へと踏み出そうとした彼女は、そこで後ろから体を抱えられ軽い悲鳴を上げた。
「ひゃあ!?」
「おっと、危ない。落とさないでくれよ」
「は、はい、でも、その」
「折角の西瓜だ。懐かしいついでに君にも付き合ってもらおう」
「はい?」
きょとん、と目を瞬かせるシェリーに、ハルヨシは指を鳴らしてアルフレッドを喚び出した。
主人の意思は全てを把握しているアルフレッドは、穏やかな笑みを浮かべて一礼し、シェリーの手から西瓜を受け取る。
部屋を後にしたアルフレッドを間の抜けた顔で見送っていたシェリーは、そのままハルヨシに抱えられ、彼の私室へと移動させられた。
書斎と違い、あまり立ち入ることのないハルヨシの部屋。
物珍しさからつい室内を見回してしまったシェリーは慌てて目を伏せ、抱えられるままにクローゼットの前へと引きずられていった。
片手で開かれたクローゼットから、ふわりと甘い芳香が漂う。花の蜜を思わせるそれは、時折ハルヨシ自身からも漂っているものだった。
目を奪われる。
クローゼットの中には、美しい刺繍の施された藍白の着物がかかっていた。
薄い、水色のような、溶け行く雲に似た色合いのそれには、白や金の刺繍で大輪の花が描かれている。
知らず、見入るシェリーの口から惚けた吐息が零れる。シェリーにはこういったものの良し悪しは分からないが、ただ、気圧される程美しいことは分かった。
「まさか本当に誰かに着せる日が来るとは思わなかったよ」
ハルヨシは呟き、脇に抱えていたシェリーを下すと、珍しく裂くことなくシェリーのエプロンドレスに手をかけた。
半ば呆然としていたシェリーは反応が遅れる。気づいた時には既にアンダードレスだけにされていた自分の体を見下ろして、シェリーはお馴染みの首まで染まる赤い顔のまま、ものの見事に固まった。
幾らなんでも、肌着を見られすぎではないだろうか。ハルヨシは基本、言葉は雑だがシェリーを大事にしてくれている。けれど、どうしても生き物としての性質の差なのか、彼自身の性格故か、こういう部分での配慮が全くと言っていいほど無かった。
「ハルヨシ様! 私、いつも自分で脱ぎますと! 言って、おります!」
「でも君は私が見ていると服を脱ごうとしないだろう?」
「とっ、当然です! こんなものを見せる訳にはいきませんし、その、だって、」
「それに君はこれの着方を知らない。私が脱がせて、着せてやった方が早いよ。さ、アルフレッドが準備を終える前に着替えてしまおう」
淡々と、それでいてどこまでも楽しげに言い放つハルヨシを相手にして、逃げる道はひとつも見つからなかった。
「髪色が合わないかと思ったけど、案外見れるな」
散々体をまさぐられ、途中、息すら止まりかけながらも着付けを終えたシェリーを見下ろして、ハルヨシは一応は満足した様子で頷いた。
彼の手によって結い上げられた髪には、これもまた彼の国の物だという装飾品の簪なるものが刺さっている。
針を思わせる形状のそれには、着物に描かれた花に似たものが印されている。我が家の家紋だった、と特に感慨も無く呟いたハルヨシの声を聴きながら、シェリーは未だ収まらない鼓動を押さえつけるように胸元に手を当てていた。
「じゃあ、行こうか。二階のバルコニーにしよう、きっと今が一番綺麗な色をしている」
靴は流石に用意できなかったようで、シェリーが履いているのはいつも通りの物だ。歩きやすいが、明らかにちぐはぐで、なんだか妙な気持ちになる。
それを言ってしまえば普段のハルヨシもそうなのだが、姿見で確かめた自分の見目は、見慣れない分、少し頓珍漢な有様に思えて恥ずかしかった。
バルコニーの椅子に慎重に腰掛けながら、不安をそのままに口に開く。
「あの、私、おかしくないでしょうか。どうにも着慣れないものなので、その……違和感があります」
「無いと言えば噓になるけども、許容範囲だな。重要なのは似合っているかどうかより、私がそれを君に着せたことだからね」
「……そう、ですか」
女性に服を贈る、というのがどういう意味かは、シェリーも一応知っていた。
けれども、それを色々と感性の違うハルヨシがどう思っているのかは知らない。単純に、『自分が着せたかったこと』が重要でシェリーの見目になど興味はないということかもしれないし、好きで着せたのだから似合うかどうかなど気にするなということかもしれない。
別に、シェリーにとってはどちらでも、これを着ることでハルヨシが楽しんでくれるのなら問題は無いので構わなかった。
ただ少しだけ、妙な期待をしてしまった自分が恥ずかしいだけだ。
「ハルヨシ様、お持ちいたしました」
「ああ、ありがとう」
沈む夕日が、空を真紅に染め上げている。
頃合いを見計らってやってきたアルフレッドから西瓜の乗った皿を受け取り、ハルヨシはその中の一切れを手にした。
シェリーも促され、同じように西瓜を取る。持ってきた西瓜の半分を切り分けたらしいそれは食べやすい大きさになっていた。
「甘いね。私が子供の頃は、もっと味が薄かった」
「ハルヨシ様にも子供の頃があったのですか」
「あるよ、君は僕がこのまま生まれてきたとでも思ってるのかい?」
「それは思わないですけど、でも、想像がつかなくて」
シェリーの言葉に、ハルヨシはからからと機嫌良さそうに笑った。
こういう笑い方をする時の彼は、少年めいていて愛らしい雰囲気に変わる。度々、一人称が変わるのもそれを加速させていた。
時を重ね、言葉を交わす内に、ハルヨシは時折とても砕けた口調になることがあった。それは親しくなればなるほどに増え、その態度と辺りに漂う雰囲気から、シェリーは自分が彼に気を許されていることを悟った。
それに気づいた時の喜びと言ったらない。シェリーは、彼が柔らかい、少年じみた物言いになるのが堪らなく好きだった。
「母とこうして、夕日を見ながら食べたものだ。家を出てからは殆ど口に出来なかったけれど、夕日を見るとあの味を思い出していたよ」
屋敷の周りに広がる森の中へ、太陽が赤く輝きながら沈んでいく。
橙色に染まり、輝く森の木々は美しく、それを眺めるハルヨシはどこか遠くへ意識を向けるような顔をしている。
どこか寂しげに見えるその横顔を眺めていると、不意にハルヨシが視線を此方に向けた。
シェリーはびくりと肩を震わせ、そして静かに息を呑んだ。
赤く照らされたハルヨシは、見目も相まってとてもこの世の存在とは思えない。
時間が止まってしまったのかと思えるほど長く、見つめ合う。
じっと、お互いがお互いを見つめている。僅かに熱の籠った視線を受け止め、シェリーは体が熱くなるのを感じた。
「シェリー、言ってくれる?」
微笑んでいるのだと、その目を見て分かった。無機質にすら見える、表情の変わらない顔。
彼はもう、シェリーの気持ちを分かりすぎるほど、分かっているのだろう。
本来ならば人のように微笑むことなどありはしないのに、その目に映る温かな感情に惹かれ、シェリーは半ば無意識にそれを口にしていた。
「あいしています」
口にした途端、シェリーは自分の内側から燃えるような熱が上がるのを感じた。
夕日は既に沈んでいる。けれども、火照った顔はランタンの灯りで隠しようもない。どうしようもなく甘く、苦しく、堪らない気持ちを抱えたまま、シェリーはハルヨシを見つめていた。
シェリーの告白を受け取ったハルヨシは、小さく笑い、その触角を揺らす。シェリーにとってはその笑い声すら愛おしく、堪らない気持ちになった。
「ありがとう、嬉しいよ。本当に嬉しい。だからね、シェリー。僕の願いを叶えてくれないか」
「なんでしょうか、ハルヨシ様」
その時、ハルヨシの瞳がとても嬉しそうに、けれどもどこか悲しげに輝くのを、シェリーは見た。
「僕を殺してほしいんだ」