Ⅳ 新しい生活
半年が経った。
シェリーは普通の生活というものがこれ程までに幸せなものだと、十六年間生きてきて初めて知った。
殴られることもなく、馬鹿にされることもない。きちんと働けば褒めてもらえ、シェリー個人を尊重し、人として扱ってくれる。
この上なく、幸せなことだった。
「ハルヨシ様、起きていらっしゃるかしら」
朝食の支度を終えたシェリーは、慣れた足取りでハルヨシの私室へと向かっていた。
数え切れないほどの部屋があるこの屋敷で、実際に使われている部屋は驚く程少ない。ハルヨシは二階の、階段を上がってすぐの部屋を書斎として、その隣を私室として使っていた。それ以外に人の出入りがあるのは、シェリーに与えられた二階の隅の部屋と、あの血塗られた食堂だけだ。
血塗られた食堂。今ではすっかり元のように、いや、元よりもやや豪華に整えられ、次の犠牲者を待っている。
ハルヨシは滅多なことでは人を喰らわない。時折、どうしようもなく抑え切れなかった時に碌でもない人間を見繕っては『食事会』の招待状を出すのだそうだ。
事実、この半年間、ハルヨシが喰らったのはシェリーの母と姉だけだった。
そもそも食事自体があまり必要ではないらしい。
だが、シェリーが雇われたからには、と拙いながらも食事を用意するようになってからは、毎食共にするのが習慣になっていた。
扉の前に立ち、ノックをふたつ。
返答を受け、扉を開こうと取っ手を回したシェリーはしかし、彼女が押すより早く引かれたそれに引きずられる。
「あっ、えっ!?」
「ん? ああ、シェリーか、おはよう。朝から働き者だね、もう少しのんびりしていても構わないのに」
「お、おはようございます……」
前のめりに倒れかけたシェリーの身体を、ハルヨシが抱き留めるように支えた。
不敬に当たるだろう体勢に、慌てて身を離したシェリーは、目線をあちこちに動かしながら頬を赤く染める。
原因は、彼の服装にあった。
東洋の生まれだというハルヨシは、人前に出る時以外は着物という、羽織ったものを帯で留めるだけの服を着ている。
シェリーからすれば体を覆うにはあまりにも心許ない代物で、更に困ったことにハルヨシは大分身なりに頓着のない性格らしく、度々その胸元がはだけていた。
スズメバチに似た顔の下、ところどころ歪に人の皮膚と虫の表皮が混じり合う首元まではまだ許容できる。
けれども鎖骨を過ぎた辺りから、均整の取れた二十代にも見える若々しい人間の体へと変わるのだ。
筋肉が程よくついたそれは、男性に免疫のないシェリーには少々刺激が強すぎた。
「は、ハルヨシ様、すみません。あの、朝食の準備が、できました」
「こういう時は礼を言われた方が嬉しいな。まあ、この場合は私が礼を言うべきかもしれないけれど」
「えっ、あ、――ひゃえ!?」
身なりに頓着しない彼らしく、大雑把に着こなした着物との相性など丸無視の皮手袋をつけた手のひらが、メイド服を着たシェリーの胸を下から持ち上げる。
そしてそのまま、二三確かめるように上下に揺すられた。女性の中ではそこそこの大きさを誇るそれが、外部からの力を受けて滑らかに揺れる。
瞬く間に首まで赤く染まるシェリーを他所に、ハルヨシは特に感慨も無い口調で呟いた。
「真正面からぶつかると衝撃が吸収されるから便利だな」
「え、あ、あの、は、ハルヨシ様!」
「西瓜が食べたい」
このくらいの、と付け足され、弾かれるように胸を離される。真っ赤な顔で固まっていたシェリーは、未だ熱の引かぬ頭のまま、鸚鵡返しに問いかけた。
「す、すいか、とはなんでしょう」
「大きくて丸い果実だ。外側は緑色をしていて、中は赤い。身をくり抜いて、砂糖を漬けておいて食べるとおいしい」
説明しているように見えてあまり説明にはなっていないハルヨシの言葉を聞きながら、シェリーは彼がまだ寝ぼけていることを悟った。
ハルヨシはその顔の構造上、声音の変化以外で感情を読み取ることが難しい。彼が分かりやすく身振りや所作で表してくれることもあったが、基本は無表情なので機嫌を汲むことすら至難の業だ。
それでも、半年を共に過ごし、彼の一挙手一投足に気を配って過ごしてきたシェリーは、少なくとも他の人間よりはハルヨシを分かっているつもりだ。
半年。半年が経ったのだ。
十六の少女が、自分を救ってくれた男に恋をするには、それは充分すぎる程に充分な期間だった。
恐怖が無かった、と言えばそれは流石に嘘になる。だけれども、ハルヨシは母や姉のように無意味にシェリーを蔑んだりしないし、暴力も振るわない。
殺しているのは裏で何か仕出かしているような人間ばかりのようだし、顔だって見慣れてしまえば愛嬌があるようにも見える。
シェリーが元から昆虫の類を好ましく思っているのも関係しているだろう。兎も角、シェリーを一人の人間として扱ってくれるハルヨシは、彼女にとっては母や姉よりもよっぽど人間だった。
自分を絶望の淵から救い出してくれ、おまけに人並みに過ごせる居場所を与えてくれた。そんな男に惚れてしまわないで済むほど、シェリーの心は痩せ枯れてはいなかった。
シェリーは、ハルヨシが好きだ。主人としても、男としても。
彼にとっては迷惑かもしれないから、決して言葉にするつもりはないけれど、それでも、隠し通せる程度で収まる恋ではなかった。
「今度、行商の方に聞いてみましょう。きっとご用意出来ると思います」
「どうだろうね、期待はしないでおくよ」
小首を傾げるハルヨシだが、言葉とは裏腹にその目は期待に輝いているのだ。とうに百を超えて生きているとは思えない程に、彼の本質は子供じみていた。そこがまた好ましい、とシェリーは思う。
朝食のメニューを告げ、それを聞いたハルヨシが軽やかな足取りで食堂に向かうのを追いながら、シェリーは口元に幸福そうな笑みを浮かべた。