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Ⅰ それは死への誘いと、


「リファル伯爵の食事会に誘われるなんて! 気に入られれば、婚約者も夢じゃないわ。しっかりね、マリア」

「ええ、分かっているわ、お母様。今日はいつもより念入りに身支度を整えなきゃ」


 色めき立つ母と姉の声を聞きながら、シェリーは古ぼけた昆虫図鑑を閉じ、立ち上がった。

 母と姉が『お食事会』に向かうのならば、これから掃除の準備をしなければならない。

 父が生きていた頃は栄えていたノーランド家も、今やシェリーと姉のマリア、母のミシェルを残すばかりの落ちぶれ貴族だ。メイドなんてものはいない。

 母も姉も、全ての雑務をシェリーに任せっきりで、あれやこれやと言いつけられる。二人の居ない時が唯一の空き時間であり、その間に普段は手一杯で出来ない掃除をしなければならない。

 帰ってくるまでに終わらせておかなければ、また叱られてしまうだろう。血の繋がっていないシェリーを、彼女達は人とも思っていなかった。

 打たれるくらいならまだ良いが、前のように寒空の下に放り出されることがあっては命に関わる。


 以前出ていった侍女のエプロンドレスを身にまとい、母と姉の邪魔にならないように掃除を始める。

 着替えの手伝いをしろ、と言われることはない。持ち前の馬鹿力で、コルセットを締め上げすぎたことがあるからだ。あの時の姉の悲鳴は愉快なものだったけれど、その後火かき棒で殴られたので今後頼まれてもそれだけは断るつもりだ。姉も、頼むつもりはないだろうけれど。


「ちょっと! あんたも支度しなさいよ、話聞いてなかったの? 本当に愚図ね」


 後ろからかかったのは、思いもよらない言葉だった。

 振り返れば、端正な顔立ちを醜く歪めた姉が侮蔑の眼差しを向けている。その隣で、母が呆れたように溜息を吐いた。


「駄目よ、マリア、あの子に自分で考える頭なんてある訳ないんだから」


 呟きには、嘲笑が混じっている。いつものことだ。握り締めた箒の柄を、潰さないようにそっと離す。


「ご、ごめんなさい、聞いてませんでした。私も食事会にお供するんですか?」

「当たり前でしょ、ちゃんと聞いてなさいよ」

「でも……私、ドレスなんて持ってません」

「はっ、ドレスぅ?」


 姉の笑い声が響く。心底馬鹿にした、耳障りな声に、シェリーは身を強張らせた。


「あんたは侍女として行くの。みすぼらしいあんたでも引き立て役くらいはこなせるでしょう?」

「でも、その、私、服はこれしか」

「……ああ、もう! 本当にとろいんだから! そこに入ってるのを使いなさい、って言ったでしょう!」


 蔑みを隠すこともなく、姉の美しい瞳は部屋の隅に置かれた木箱を一瞥した。

 姉や母の古着が入った箱だ。時折、許しを得た時だけそこからシェリーの新しい洋服を選んでいいことになっている。

 そんな許しをもらえたことは、ここ五年間全くなかったので、すっかり忘れてしまっていた。

 甲高い声を挙げて罵る姉の声を背に受けながら、適当な服を見繕っていると、不意に後頭部に激痛が走った。


 硬質な音を立てて、錆びたフォークが床に落ちる。手を当てると、微かに血が滲んでいた。


 姉はまだヒステリックに叫んでいたが、シェリーは出来る限りその言葉が奥まで染み込まないよう、心に蓋をした。

 気にしたら負けだ。言い返したところでより酷くなるだけだし、母はいつだって姉の肩を持つ。父が死んでから、この家にシェリーの味方は一人もいない。

 馬鹿力で細かい仕事は一つも出来ず、誰かに見初められるほどの器量も持っていない、賢くもないので家から出ることも出来ない。

 逃げ場がないシェリーに出来ることなど、只管に我慢することだけだ。

 滲んだ涙には気付かないふりをした。



 身支度を整え終わる頃に、家の前に馬車が停まる音が聞こえた。

 どうやら姉は、わざわざ迎えの馬車を寄越される程には気に入られているらしい。


 何をして気に入られたのか、そもそも面識があったのかどうかすら定かではないが、見目だけならばその名の通り聖母のごとき優しさと美しさに溢れたマリアならば、どこかで目に留まったのかもしれない。

 だが、例え何が理由であろうと、シェリーには関係のないことだ。

 彼女がやるべきことは一つ、姉に付き従い、引き立て役として彼女の輝きが増すよう振舞うこと。ただそれだけの、単純な仕事だ。

 硬く施錠された豪奢な馬車に揺られ、沈みかけの日が完全に落ちる頃に辿り着いた屋敷の前には、微笑みを浮かべた老執事が立っていた。



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