第八十八話
ソルティアさんが連れ去られてしまった家の中には、俺一人だけが取り残された。友達の家にいったときに友人が唐突にどこかへ行ってしまったかのような気分だ。というよりも、そのまんまの状況だ。家の主人がいない家の中でどうしろというのか。
それに、彼女は連れ去られたも同然に出て行ってしまったので、どうやら家の玄関の鍵もかけていないようだった。そのままにしておくのも何となく嫌なので、玄関の扉の元まで行く。この世界の鍵も、だいたい元いた世界と同じだったので、鍵をかけることも出来るだろうと思ったのだが、この家の扉には鍵が付いていなかった。不用心にも程があると思ったが、無いものはしょうがないので、鍵をかけるのは諦めた。ソルティアさんが入れなくなってもしょうがなかったので、これはこれで良かったのかもしれない。
今は一人しかいないとはいえ、他人の家なので、大人しく俺に割り当てられた客室に戻る。客室にあるのは、お茶とお菓子くらいしか置けなさそうな小さなテーブル、意外と柔らかそうな座椅子、手荷物とかを入れておく用と思われる小さなタンス、最後に、畳に堂々と敷かれた布団だ。本当に最低限という感じだが、数日住むぶんには問題ない設備だ。
することもないので、畳にごろんと横になる。畳独特の香りが、慣れないところに来たことによる疲れを徐々に癒してくれる気がする。やはり、元日本人にとって畳、というか和の物は特別なもののようだ。嘗て住んでいたころには感じることが出来なかった安心感のようなものが、俺の全身を優しく包んでくれる気がする。
前の世界での記憶は、実は最近徐々に薄れて行ってしまっている。別に、不自然に穴が抜けたように記憶が無くなっているということではなく、十年も二十年も昔の出来事として、大人になったときに子供の頃の記憶が断片的になるような感じで、自然と少なくなっている感じだ。中学生までしか生きなかった短い記憶だが、楽しかった記憶も、辛かった記憶も沢山あった気がする。しかし、今思い出せるのは両親と、最も親しかった二人の幼馴染くらいだ。
そういえば、向こうで俺が死んでしまった後、彼らはどうなったのだろうか。どうも思わなかったのか、悲しんでくれたのか、それとも泣いて俺の死を惜しんでくれたのか。どっちにしろ俺に確かめる方法はないし、もし確かめられたとしても、知りたくはない。両親も子供の俺が可笑しいだろと思うほどに若々しく元気なので、心配はいらないなろう。幼馴染の二人も、俺が常に振り回されてしまうくらいに力強いので、心配なのは、何か問題を起こしたときにいつも後始末をしてきた俺がいなくなって大変な目にあっていないかくらいのものだ。きっと、元気に過ごしていると信じよう。ついでに、俺も元気に生きていると教えられればいいが、それも無理な話だ。
そんな風にしていたら、いつの間にか俺は畳の上で眠ってしまっていた。その目からは、ひとすじの涙の跡がついていた。




