悪夢
箱の中には、白い布に包まれた状態で三つの木の板が入っていた。板は正方形で、手のひらに収まるくらいの大きさだった。
「あ、何か書いてあるぞ」
ノブが板を一枚手に取り、表面に書かれていた文字を読んだ。
「これは……『壱』か?」
「本当だ。こっちにも……ねぇ、これなんて読むの? ぶ?」
「ミキ先輩、それは『弐』です……」
苦笑しながら、ヒロキも箱の中に残った板を拾い上げる。表面には想像通り、赤く『参』の文字が書いてあった。
「これ、何だろうね……」
「えっと、番号札……とか?」
「何のだよ!」
今までずっと緊張していた三人は、部屋の中に大したものが無かったことを知り、思わず笑い出す。
「全然大した事無かったね」
「もっと凄い物が出てくるかと思ったのにな」
「ま、所詮こんなもんだろうな」
それぞれが、大したことなかったと口を揃えて言う。紛うことなく、少年達と少女は幸せだった。
そして、その時は突然訪れる。
そろそろ帰ろうかと、彼らが扉の方を向いた時、そこに居た。
距離にして四メートル。暗闇の中、照らされる光の中で、扉を塞ぐ真っ白なボロ布が揺らめいていた。
無数のミミズがのたうつように皮膚が隆起した足が見えた。
見たことも無い方向に折れ曲がる五本の指を有する手が見えた。
闇に溶け込むような長い黒髪の隙間から、地獄の釜のような目が覗いている。ニタニタと、ニタニタと笑っている。
まさに、悪夢の顕現だった。
「な……に……あれ……」
恐怖に掠れたミキの声が、闇の中へと掻き消える。腰を抜かして座り込んでしまったヒロキは、ただガクガクと震えていた。突然目の前に現れた恐怖を理解することをを脳が拒んだ。右手に握る懐中電灯の灯りだけが淡々と闇を切り裂き、悪夢を照らし続けている。
突然、光と闇の交差する世界で何かが動き出した。
「うおぉらぁぁあ!!」
得体のしれぬ恐怖を前に、ノブが狂気に取り憑かれたかのような叫びをあげ、悪夢に向かって走り出していた。
ヒロキの目にその姿が映る。
いつだってそうだった。ノブはいつも助けてくれた。ヒロキが困った時には、いつも必ず傍に居てくれた。
ヒロキにとって、ノブは親友である以上にヒーローだったのだ。
だから――
「……い、ち……」
ノブが、ゆらゆらと揺れる悪夢に殴りかかり、その瞬間に乾いた破裂音と共に彼らの目の前で彼岸花のように鮮やかな赤を咲かせるまで、ヒロキはノブの勝利を疑っていなかった。
「ち、いち、い、ちぃいいぃぃいい」
ノブの後頭部が、棒で叩かれたスイカみたいにグチャグチャと割れていた。走っていた勢いのままに光届かぬ闇の中へ倒れこみ、そのままピクリとも動かなくなった。
「う……うわああああぁあああぁああ!!!」
「きゃあああああああああああああ!!」
突然降りかかった友人の死は、安っぽい映画みたいに非現実的だったが、彼らの目の前に飛んできた血と脳漿は、間違いなく現実であると認識させるには十分だった。
「ぃ……にぃ……いぃに、にぃ……」
ぺたり。
悪夢が歩き出した。
ぺたり。
ニタニタと笑いながら。
ゆらゆらと揺れながら。
真っ直ぐに、ミキの元へと歩を進める。
「や……いやっ……こっち来ないでぇぇ!」
ミキは震える足を必死に動かして何とか後ずさるが、まるで動かし方を忘れてしまったかのように足取りがおぼつかなかった。もはや、箱が乗っていた台で身体を支えていなければ今にも崩れ落ちてしまいそうなほどだ。
「いぃいい、に、ぃ、いい……」
「やだっ、来ないで! 誰か、助けて……お願い……!」
既に悪夢はミキの目の前まで迫っていた。助けを求める視線が宙を彷徨う。
「……えっ……――」
目に写った光景にミキは愕然とした。彼女が人生の最後に見た画は、こちらには目もくれずに一目散に逃げ出すヒロキの後ろ姿だった。
「い、いやっ……」
「に、ぃいいぃいいぃぃぃぃいいいい、ぃいいいいい」
眼前に迫る悪夢の手が、そのままミキの頭を覆う。圧力が強まる程に、頭のなかを何かが軋む音が響き渡る。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」
闇に背を向けて一目散に逃げるヒロキの背後から、様々な怨嗟を混ぜ込んだ恐ろしい声が聞こえてきた。彼は、あの化け物の叫び声だと思い咄嗟に耳を塞いだが、それが、彼が見捨てた少女の発した断末魔だったことは知る由もなかった。
ヒロキは階段を駆け上がり、必死の思いで出口へと辿り着いた。幸い、手の中にはしっかりと懐中電灯を握りしめており、僅かな灯りの中で躓くこともなかった。
急いで入り口のドアを閉め、そのまま身体を使って悪夢が出てこないように抑える。
「……はぁっ! っ、はぁっ!」
自分の呼吸と心臓の音が煩く響くが、しばらくの間、ドアの向こうから何かの音が聞こえないかと耳をすませ続けた。
そのままの姿勢で十分ほど待ち続け、そして、何の音も聞こえてこないことを確認すると、ヒロキはやっと一息つくことができた。
「……そうだ、助けを呼ばないと……」
ミキを見殺しにしたことはわかっていた。あの時は怖くて逃げることしかできなかった。
恐らく、彼女は既に殺されているだろう。だが、このまま黙っているわけにはいかなかった。せめてもの罪滅しとして。
「……よし!」
ヒロキはドアから数歩下がり、様子が変わらないことを確認した後、そのまま校庭へ向かって走りだした。
外は既に夕日が沈みかけていたが、まだ微かに明るかった。この時間なら誰か残っているかもしれないと、ヒロキは考えた。
そして、その思惑は見事に的中した。偶然、家に帰る途中の教師を、駐車場に発見したのだ。幸いにも、彼はヒロキ達の部活の顧問だった。
ところが――
「と、止まれぇっ!」
ヒロキが大声で教師に呼びかけた時、彼が最初に発した一言がそれだった。
「ヒ、ヒロキ! そ、それで一体、私に何しようってんだ!」
「どうしたんですか先生! 俺はただ助けて欲しいだけなんです!」
ヒロキが再び近づこうとすると、教師は鬼気迫る表情で言葉を放った。
「近寄るなと言ってるんだ! 助けて欲しい? それなら、その手に持ってる物は何なんだ! お前のその格好は!」
「えっ、何言って……うわああっ! な、なんだよこれっ!」
ヒロキは自らが手に握りしめていた物を認識した途端、恐ろしさのあまりそれを地面へと投げ捨てた。
それは、彼が先ほどまで持っていた筈の懐中電灯ではなく、赤黒い液体で汚れた、見たこともない包丁であった。
更に、ヒロキは自分の身体に起こっていた異変にも気付いた。ノブは離れた場所で殺された。それなのに、彼の服は大量の血によって染め上げられていたのだ。
「お、お前……何が目的なんだ!」
「違う! 俺はこんなの知らな……ひぃぃっ!!」
ヒロキが弁明のために顔を上げた時、教師の後ろにもう一人、紛れも無いあの悪夢が立っているのが見えた。
「あああああ、く、来るなぁ!」
ヒロキは地面に投げ捨てた包丁を再び拾い上げ、悪夢に向かって構える。どうやら悪夢の姿はヒロキにしか見えていないようで、教師は慄きながら必死に説得を試みていた。
「おい、落ち着けヒロキ! 落ち着いて、それを捨てるんだ」
「さ……あ、ぁああぁああ……ん……」
「ひぃぃぃぃぃぃっっ!!」
教師の身体をすり抜け、悪夢がゆらゆらと揺れながらヒロキの方に近づいてくる。
「や、いやだっ……やめ、やめろっ……」
指の折れ曲がった手が眼前へと近づく。一部が腐り果て、骨の露出している指もあった。
「あ、う、うわあああああああああ!!」
ヒロキは、手に持った包丁を無我夢中で悪夢の胸に突き立てた。豆腐を刺したような僅かな手応えを感じたかと思うと、悪夢の動きはピタリと止まり、そのまま空気に溶けるようにその姿を消した。
「ヒロキぃぃぃ!」
「は、あはは……なんだよ、弱っちぃ、じゃん……」
ヒロキの身体が、そのままアスファルトの上に崩れ落ちた。手足に力が入らず、動くことができない。
「おい、ヒロキ! 大丈夫か! しっかりしろっ!」
教師の叫ぶ声は既にヒロキの耳に届いてはいなかった。胸からは大量の血液が溢れ、止めどなく流れていく。そして、そのままヒロキが起き上がることは、二度となかった。