プロローグ2 覚悟と出会い
「……あなた誰?」
飄々として掴みどころのない男に、リリカは恐る恐る尋ねてみた。魔物を真っ二つにしたその剣の腕前は、明らかに只者ではない。一流――いや、達人の領域には達しているだろうか。あれだけの魔物をすぱりと切れる人間はそうは居ないに違いない。
「俺はただ、散歩に来ただけのスレイヤーさ。この町、遊ぶところがろくにありゃしねえからな、暇で暇で困っちまってよ」
男はそう言って帽子のつばをずらすと、気だるげな様子で息をついた。彼はリリカを横目で見ながら岩を降りると、魔物が居た方角へと歩を進める。すでに魔物の姿は跡形もなく消え、そこには目で見る限り何も残されてはいなかった。魔力が抜けて、魔物が元の小さな魔道具に還ったのだろう。
「ありがとう! もしかしてあの船の人?」
「ああ、そうだ。礼は良いぜ、未来の美女を助けたと思えば安いもんさ」
そうやって話しているうちに、男は魔物が居た場所まで辿り着いた。彼は海中へと手を伸ばすと、砂に埋もれていた小さな懐中時計のような物を拾い上げる。彼の掌にすっぽりと収まるほどのそれは、魔力を動力源とした魔導式時計だ。通常のゼンマイ式時計に比べれば、倍ほども値が張る高級品だが――魔物から出てくる魔道具としてはありふれた物である。
「ちッ、でかい図体の割に時計かよ! 田舎は魔物までしけてやがるぜ……」
「ねえスレイヤーさん、あなた名前は? レベルはいくつなの? ランクは? ねえ、教えて!」
男が時計を拾い上げているうちに、リリカは彼の足元までやって来ていた。自分の興味の赴くまま、あれやこれやと根掘り葉掘り尋ねてくる彼女の様子に、男の眉が不機嫌そうに歪む。彼が興味があるのはあくまで大人の女であって、幼女に対する優しさはあくまでそれに付随するものでしかないのだ。
「……ったく、そんなに一度に聞くな! 俺の名はラルド・グラッセン。あとのことは明日にしな。今の俺は暇するのに忙しいんだよ」
「ラルドさんね? わかった、明日にする。私はリリカ、よろしくね!」
「おう、気をつけて帰りな」
リリカはペコっと頭を下げると、そのまま岩のトンネルを潜り抜けて町の方へと走っていった。時刻はとっくの昔に夕飯時を過ぎている。ルルカやハイルが心配しているかもしれないと、今思い出したのだ。一方のラルドは、走り去っていく彼女の背中を見てやれやれとばかりにほっとした顔をする。彼は懐から葉巻を取り出すと、月を眺めながらふーっと吹かしたのであった。
翌日、ラルドは港の桟橋で釣りをしていた。普通、スレイヤーというのは各地に存在するスレイヤーズギルドの支部で依頼を受けて活動をするので、昼間のうちから暇になることはあまりないのだが――あいにくニーニルの街には支部がなかった。なにぶん平和な地域なので、スレイヤーに討伐を依頼するような魔物や魔獣が発生しないのだ。
「全然釣れやしないな。暇つぶしにならねーじゃないか」
ラルドは苛立たしげに立ち上がると、桟橋の縁から下を覗き込んだ。今日の海は波も穏やかで水も透き通っている。水深の浅い桟橋周辺では、海底まで上からしっかりと見通すことが出来た。しかし、ラルドの眼には魚の姿が入ってこない。どうやら魚たちは、もっと水深の深い沖合の方まで出て行ってしまっているようである。
「チッ……」
「おーい、ラルドさーん!!」
「あん……ほんとに来たのかよ」
ラルドが振り返ると、桟橋の根元のあたりにリリカの姿があった。燃え立つような緋色のツインテールが、水面にゆらゆらと揺れている。明日にしろとは言ったが、本当に来るとは。ラルドは額に手を当てると、心底めんどくさそうな顔をした。しかし、来てしまったからには相手せねばなるまい。彼は釣りを一時中断すると、浮きを引き揚げにかかる。
「よう」
「ちゃんと来たよ! だから質問に答えて!」
「……良いぜ。どーんとしな」
「ランクはいくつ? これから何処へ行くの? レベルは?」
「ランクはゴールド。行き先はまあ、天路の果てにある大陸だ。レベルは71だぜ」
――レベル71!?
リリカは思わず息を呑んだ。レベル70以上の人間を見るのは、彼女にとって生まれて初めてだ。この町に住む人間は、一番レベルの高い駐在騎士のレイヘルでさえレベル26。70以上の人間など、想像の範囲外にいるまさに未知の領域の存在である。彼女の心臓がドンと跳ね、興奮が身体を駆け巡る。
「凄い! こんなにレベルが高い人初めてよ! ねえ、どうやってそんなにレベル上げたの?」
「そりゃお前、魔獣や魔物を倒しまくったからに決まってるだろ」
リリカはむっと頬を膨らませた。それでは「彼女にとって」まるっきり答えになっていない。
「私……魔獣を倒しても倒してもずっとレベル0よ」
「おいおい、ほんとかそれ? ちゃんと倒してるのかよ」
魔獣や魔物を倒せば誰でもレベルは上がる。
それがラルドにとってこの世界の法則であり、実際に彼もそれに乗っ取ってレベルを上げてきた。これが当てはまらない人間など、長らく旅をしてきたが彼は見たことがない。しかも、子どもの言うことだ。彼はとても信じる気にはなれず、疑うような眼でリリカを見る。
「ほんとよ! ちゃんと倒しても、レベル0なの!」
「ふーん……」
「疑うなら、狩りについてきてよ。ちゃんと魔物を倒してるってところを見せてあげる」
「わかったわかった。いいぜ、ついていってやるよ」
リリカの言うことに興味が湧いてきたラルドは、彼女の狩りについて行ってみることにした。どうせ、ここにいてもやることなど碌にありはしないのだから。彼は釣竿を背負って腰をぽんぽんと叩くと、ゆっくりと彼女についていく。
「確かに、ちゃんと倒してはいるようだな」
港の奥に広がる砂浜。そこで一通りリリカの狩りを見たラルドは、ふうむと首をひねった。きちんと魔獣にとどめを刺し、放出された魔力も吸収している。これでレベルが上がっていないとはまず考えられなかった。あるとすれば、子どもにありがちな見間違いだ。そうラルドは判断する。
「よし、カードを見せてみろ」
「うんッ!」
リリカは懐からレベルカードを取り出すと、意気揚々と魔力を込めた。表示された結果は――もちろん0。それを渡されたラルドはおいおいとばかりに首をひねる。
「なんでこれでレベル0なんだ……?」
「わかんないよ。それがわかんないから困ってるの!」
「うーむ……まあいい、もっと倒してみろ。魔力が足りないのかも知れん」
「わかった! もっともっと倒してみる!」
それから、リリカは日が暮れるまでグリーンクラブを倒し続けた。しかし、彼女のレベルは一向に上がらない。普通、レベル0から1であればグリーンクラブを十匹も倒せばあがるはずであるが――まったくその気配がなかった。今日一日で十五匹は倒したのに、だ。リリカにとってはいつものことであるが、ラルドにとっては驚きである。
「これだけ倒せば、上がるはずなんだがなぁ……」
「ねえ……そんなにレベル高いなら魔獣を倒す以外にもレベル上げるいい方法とか知らないの?」
「そんなの知らねえよ。敵を倒しても上がらねえとなると、俺にはさっぱり……」
「私、どうしてもレベル上げて強くなりたいの! ほんとに、ほんとに何も知らないの!?」
リリカはラルドのコートにしがみつき、彼の身体を揺さぶった。その眼は必死で、何か鬼気迫る者を感じさせる。とてもまっとうな子どものする眼じゃない――ラルドはそう直感した。彼はリリカの肩にポンと手を置くと、中腰になって彼女の眼を見る。
「なあ、お前はどうしてそんなにレベルを上げたいんだ? レベルが低くたって、何も困らないだろう」
レベルが低くても一般市民として町で暮らす分には何も不自由はしない。ましてリリカは女、肉体労働とも縁が薄いはずだった。ラルドには、彼女がどうしてそこまでレベルを上げたいのか理由が見当たらない。
「私、スレイヤーになりたいんだ。どうしても!」
「なるほどな……スレイヤーに憧れるガキは多い。が、お前はそれだけじゃないだろう?」
「…………夢を継がなきゃいけないの」
顔を下に向けたリリカは、消え入るような声でそう呟いた。彼女は小さく口を開くと、ぽつりぽつりとゆっくりながらも万感の思いを込めて言う。
「私のパパは、もともとスレイヤーだったらしいんだ。馴染みのお客さんから聞いたの。でも、私が生まれてすぐにママが死んじゃって……。だから私とルルカの面倒を見るために、パパは戦いをやめてこの町に本屋を開いたそうなの。でもパパ、時々『エーガ英雄記』を読んで凄くさびしそうな顔してるんだ……。本当はまだ、夢を追いたかったのよ。もっともっと仲間と冒険したかったのよ! その夢を私たちが…………奪っちゃったの。結果としてだけど、ね。だから、私は決めたんだ。店を継がない次女の私は、その分、パパの夢を継ごうって。心配されちゃうから、まだパパにもルルカにも内緒だけど」
「……理由はわかった」
ラルドはそう言うと、中腰の姿勢からゆっくりと背筋を伸ばした。そして肩をほぐすように首をぐるぐると回すと、改めてリリカの方を見る。その眼は強い光に満ちていて、リリカは思わず肩を震わせた。
「お前に、俺のとっておきをやろう」
「ほんと!?」
「ただし、これを見ても意志が変わらなかったらな」
ラルドはロングコートの肩の部分に手を掛けると、一気にそれを脱ぎ去ってしまった。すると――
「なッ…………!」
傷・欠損・火傷――現れたラルドの肉体は、正常な部分を捜すのが難しいほどの有様であった。
全身至るところを生々しい古傷が埋め尽くし、ところどころ肉が抉り取られてしまっている。さらに左足の付け根の部分は銀色に輝いており、そこから先が義足であることを雄弁に語っていた。生理的な嫌悪感などを通り越し、本能的な恐怖すら抱くほどの惨状である。今ここに彼が立っていることは、もはや奇蹟としか表現のしようがない。
リリカは眼を見開き、ただただ黙っていることしかできなかった。彼女の指先は小刻みに震え、背中にはじっとりと汗が浸みている。さらに顔からは血の気が失せて、ただでさえ白い肌はやや紫を帯びていた。
「これが現実だ。俺は今までの旅で仲間二人と左足を失い、こんな身体になった。いいか、無傷の英雄なんてのは存在しねえ、夢の存在だ。お前に血を流す覚悟はあるか? 仲間を失う覚悟はあるか!?」
ラルドは半ば激高したかのような強い口調でそう言った。そのあまりの迫力に、リリカは物理的な圧力すら感じてしまう。さながら、彼の中で何か爆発が起きてそれに自分が押されているような感覚だった。しかしリリカは――口元を歪め、微笑む。
「私にはそんな覚悟…………………… な い よ !!!!!!」
「な、なんだって……?」
「誰も死なせたくない、私も死にたくない、何も失いたくない。だから私は強くなりたいんだ! 守るために強くなるんだ! だからそんな覚悟、いらない!!」
リリカはそう言うと、ラルドの顔をキッと睨みつけた。そのまなざしに初めは驚きを露わにしていたラルドであったが――やがてその表情は、笑みへと変わる。こんな大それたことを言う人間は、彼にとって二人目であった。馬鹿げているとは思うが、決して悪くない気分である。
「は、はははッ!! 言うじゃねえか! いつか見た大馬鹿野郎にそっくりだぜ。いいだろう、俺のとっておきをやるよ」
「ありがとう!」
ラルドはズボンのポケットに手を伸ばすと、そこから小さな巾着袋のような物を取り出した。圧縮袋――非常に珍しい古の魔道具である。その名の通り内部に圧縮した空間が詰め込まれていて、小さな見た目の軽く数百倍は物を入れられる便利な道具だ。とても貴重で高価なためニーニルでは誰も持っておらず、リリカはここで初めて見る存在である。
ラルドはその中から文庫本サイズの本を取り出した。赤いカバーはツルツルと独特の光沢があり、デフォルメされたドラゴンのような絵が描かれている。本屋の娘として暮らしてきたリリカであったが、彼女ですら見たことのない風変わりな本であった。王冠島では本のカバーというのは革製で、しかも黒か茶系統の落ち着いた色のはずなのだ。
「これはな、俺のダチが手に入れてきた異界本ってやつだ。知ってるか?」
「もちろん。うち、本屋だもん」
異界本というのは、天路の奥地などで稀に発見される異世界の本のことだ。かなり珍しいものではあるが、驚くほどのものではない。実際、数冊ではあるがハイルの店でも扱っており、リリカもそれを見たことがある。
「そういやそうだったな。……話を続けるぞ。なんでも、そいつによるとこれは異世界最強の武道家の一代記だって言うんだが……いかんせん俺は語学が駄目でな。全く読めないんだ。だが、そいつの話が正しいとすればこれに強くなるヒントがあるかも知れん」
「貸して!」
リリカは半ばひったくるようにして、ラルドの手から本を受け取った。彼女はすぐさま表紙を開くと、その中身に眼を通す。すると彼女の目に真っ先に飛び込んできたのは、文章ではなく絵だった。写実性とはかけ離れた人間らしき生物や風景の絵。それがページ中にびっしりと隙間なく描かれていて、さらに罫線によっていくつかに区分けされている。
――何なんだろうかこれは。リリカは一瞬、これがどんなものかさっぱりわからなかった。人物の吐き出す煙のような物の中に書かれている、異界語の文章。それ自体は非常に平易で、本屋の娘であるリリカにはかろうじて読み解けるのだが――本自体の読み方がいまいちよくわからない。絵本の一種に近いが、何か別のこの世界にはない独特の形式で描かれているようだ。
「どうだ、読めるか?」
「うーん、なんとか……時間はかかりそうだけど」
「じゃ、頑張れ。言っておくが、それ全部で四十二冊あるからな」
「なッ!?」
巾着袋をリリカの方へ放り投げ、悠々と立ち去るラルド。その一方で、リリカはそのあまりの巻数に打ちのめされそうになった。一冊でも相当時間がかかりそうであるのに、四十二冊となるとどれほど時間がかかるのか。彼女の頭の中で、時計の針がぐるぐると無数に回転する。しかし、負けてはいられない。リリカは気合を入れ直すと、ゆっくりながらも立ち上がる。
「これぐらいじゃ、へこたれないんだから! 絶対読み切って強くなる!!」
水平線に沈む紅の夕陽。本を高々と掲げながら、リリカはそれに向かって思いっきり叫んだのであった――。
次回からいよいよ本編開始です、ご期待下さい。