02
湖のほとりにヘラジカの屍骸があった。
そこまでたどり着くのは一苦労だった。なかなか立てないし相変わらず震えは止まらず、胸が苦しくて仕方ない。さほど遠くではなかったのがせめてもの幸いだった。いつぱったり倒れてそのまま動かなくなってもおかしくなかったのだ。
屍骸はあらかた片付けられていて僅かな肉片しか残っていなかったが、私はありがたくむしゃぶりつき、骨から肉を丁寧にそぎ落としていった。ほんの少しだが火が灯るように温かな血が体を巡るのを感じるかのようだった。
湖は凍っていたが、その近くの森に細い流れがあった。その冷たさは雪のそれとは違い眠っていたような感覚を呼び戻してくれた。
私は私が通ってきたであろう山の道を見上げた。
他の狼たちに聞いてもアルファが見つけたのでわからないと言う。
「知らないわよ。アンドゥルフが先に見つけたんだから」
雌のアルファであるリーベは素っ気なく答えるのみだった。アンドゥルフはあの黒狼、彼女の伴侶だ。私はそれ以上聞くのをやめた。
連綿と続く山並みの間の渓谷を歩いてきたのだ。
それはここの群れの縄張りとはまだかなりの距離があり、何度考えてもここまで進んできたことが信じられなかった。それまでのことを顧みて、自分にそんな力が残っていたとはとても思えない。
ふと私はいつかの夜の不思議な光を思い出した。
あのたなびく光の川はまだ瞼の裏に焼きついている。あれがきっと天空に道を刻み、ここまで導いてくれたのだと思った。
ここの群れは冬の訪れにもものともせず、それはブリザードを伴ってやってくる厳冬でも変わらぬように見えた。全員が強く、足取りもしっかりとしている。
ここには湖と丘陵に沿って広大な森が続く。
ヘラジカは危険だが挑み甲斐のある獲物だ。
そして森を抜けてさらに南へ行けばカリブーの移動ともぶつかるようである。群れの大人は経験豊富だし、仔狼たちもすぐに狩りを覚えるだろう。
元の力が戻ってくるには時間がかかったが、ともかく私は虎口を逃れることができたのだった。
もちろん誰かが私のためにわざわざ狩りをしてくれるわけではない。それでも親切な狼はいるもので、こっそり分け前をくれるものもいた。
それにここは木々が豊富なためにその下の雪は柔らかく、前足を痛めることなく掘ることができた。私はそれでネズミを数匹捕らえた。
ようやく群れの一員となることができたわけだが、全てが穏便に収まるわけではない。
特にリーベの叱責は厳しく、ことあるごとに私につっかかってきた。彼女のことを思えばそれも仕方のないことに思えた。
私は若い。血を燃やし駆け巡らんとするのに最適な年だ。もちろん彼女よりも若い。
おまけにリーベはどちらかというと小柄で、私の方が大きいくらい。優秀な狼であることは間違いないようだが、彼女の動きを見ていてひょっとしたらなどと考えてしまう。
私はまだまだ未知だ。内にも外にも秘めた力を出しきれてはいない。こんな状況でなかったら狼としての力を試せるだけの材料は具わっているし、その権利も有しているのである。
鈍色に白が混じる極々ありきたりな毛色の彼女は、よく私に尖った瞳をよこす。
リーベは夫をかなり愛しているようで、その愛情表現はしばしば落ち着きがなく激しいものだった。彼女の夫はその目を引く黒い毛と異様な瞳のせいでそびえ立つが如く見え、並べば彼女はまるで大人になる一歩手前の若狼のようだ。
彼の方は実に冷静でゆるりと尾を振るのみ、彼女に合わせてじゃれつくことなど殆どなかった。
彼らの仔狼たちはなぜか母親の外貌ばかりをよく受け継いでいるようだった。黒色の者はいるにはいたが必ず銀や白の差し毛が混じり、そもそも黒というより濃灰に近い。当然ながらあの緋に紫がかったような瞳を持つ者などいなかった。
飢えの危機を脱し、調子を取り戻していくにつれて私の眠っていた力がむくむくと膨れ上がってくる。群れの様子を観察できるだけの余裕も生まれてきていた。
それを知ってか知らずか、たとい私が休んでいたとしてもリーベはふいに唸り声をあげて私を押さえつける。私は彼女の口を舐める。必要なら腹を出したりもする。
それが次第に億劫になっていくのがわかった。
仮にも私は独り立ちすることを目された狼。誰が好き好んで腹なぞ出すものか。
しかし私は表立って反抗的な態度はとらないようにしていたつもりだ。定位置は群れの隅。力がどうであろうと新参者の私はこの群れの端くれであることに変わりはない。獲物の分配も最後だ。それでも私は生かしてもらっている。
遠くの厳しい山々に目を向け知らず知らずのうちに己が辿った道を見つめながら、私の胸の内にあるのは安堵と感謝だ。
経験の乏しい私にはよくわからなかったが、この時期に独り者がさ迷い生き残る確率はかなり低いし、群れを見つけたとして入れてもらえる可能性もまた低い。
冬は私に限らず誰もが血を沸き立たせる季節なのである。争いも生まれやすい。群れを守ろうとするなら、気心知れた顔ぶれか又は自分の血族だけで固めようとするだろう。
群れの数が少なければ仲間に入れてもらえなくもない。だがここの群れはそこそこ大きい上に皆頑強なのである。まぎれもなく私の存在など不必要であった。
ところが私は私の存在意義を認める決定権を担ったであろう張本人の目を未だまともに見られずにいた。
アンドゥルフの目は何を見ているのかわからない。それが私をじっと見下ろす。私は俯いてやり過ごし、彼が立ち去るのを待つ。彼が背を向けてからやっと息をつけるような心持ちさえする。
正直なところ何度も威厳を示してくるリーベより、黙したままの彼の方が怖かった。
実際アンドゥルフは私に何もしてこなかった。それどころか言葉すら交わしていない。
妻が役目を果たしているので必要ないと思ったのかもしれない。それがどうやら不満らしい妻の方は時々小言を零していた。それでも彼は静かに横になるだけだった。