06
まず私はしばらくの間、体を休ませねばならなかった。
右の後足と尾の辺り、それから胴に一箇所裂傷があり血が滲んでいた。それほど深い傷ではなかったことに安堵する。
だがそれからは苛烈を極めるものであった。
太陽が二度昇るまでに私はウサギを見つけ、運よく捕らえることができた。
それは木が生えていたところまでだ。
以後は獲物らしい獲物は得られなかった。
天候は悪くなる一方で、雪山を独り進む私に追い討ちをかけてくる。
舞い落ちる雪は一向にやむ気配はない。
綿のようなそれは見る間に分厚く積もって私を雪の中に沈み込ませようとする。
少し休み目覚める頃にはすっかり雪に埋もれている。まどろんでいるときは不思議と温かく柔らかいのに、意識を取り戻すと同時にのしかかってくる。
それは日ごとに重みを増していくように思え、もがいて雪から這い出るまでにかなりの時間がかかるようになってきた。体の節々が強張ってすぐには歩き出せなかった。
四方は見渡す限り山が連なり、牙の如く鋭利で冷ややかにそそり立っている。
狼の声を求めてすがるように耳を澄ますが、木々がほとんどなく獲物の影も見出せない場所に狼の群れがいるはずもない。いくら遠吠えしたところで同じこと。
そしてそれ以前に一頭で冬の山に迷い込むことはすなわち死を意味する。その連想を必死に振り払うことしかできなかった。
ウサギを得てから何も口にしないまま数日が過ぎ、ある日ドールシープの屍骸を見つけた。だいぶ日が経っているらしく骨と滓のような皮しか付いてない。凍った骨は石のように硬く、口の中にざらついた氷の跡しか残らなかったが、私はその骨にかじりつくことをやめられなかった。
厚い毛皮の下で肉がこそげ落ちていく。
その毛皮もばさばさに乱れて皮膚に辛うじてぶら下がっているという有様。
今の私はコヨーテよりも痩せて小さくなっているに違いない。
まるでシカの真似事のように木の皮をかじり、枯れた僅かな草を掻き出して咀嚼しさえする。
何度も何度も雪の大地を飛び跳ねたために足の裏が割れて血が滲んでいる。
雪の下に潜むネズミを捕らえようと前足を叩きつけるのだが、厚く固い雪はそんな棒のような足を嘲笑う。降ったばかりの雪は柔らかくても、風にさらされてすぐに固まるのである。
足が使い物にならなくなって歩けなくなるか、飢えて朽ちるかは時間の問題であった。
どちらかを選ばなければならないなんてことにならぬよう、私は歩き続ける他ない。
切り立った山肌の上、足場なぞない場所をドールシープたちが闊歩する。立ち止まり、私を見下ろしている。
否応なく唾液が溢れ出るが、とてもあんな高所には行けない。それがわかっているから恐れる風もなく悠々と見下ろしているのだ。
それにあんな大物は群れでないと倒せなかった。
風に乗って獲物の匂いが届いてくるというのに、視界に彼らの角までも映しているというのに、私は一歩たりとも彼らを追えないのである。せめて彼らを揺さぶるほどの遠吠えをしたかったがやめた。
もう私に声を出す気力など残っているはずもなかったからだ。
山が霞がかってくるように感じた私は何度か瞬きした後、ふとあの悪夢を思い出して微かに笑う。
何も見えなくなり、何も聞こえなくなる。
私は腰を落とした。
再び夜が来た。
突風に近い風が吹きつけてくる。瞼を閉じるよりも暗い黒闇の空と、目を射る白銀の雪。月さえもない。
どちらを見ても盲いになったかのようだった。
眠れない。眠ることなどできない。
今目を閉じてしまったら、あの黒と白の闇に吸い込まれていきそうだ。しかしもう歩くことができないのも事実だった。
私は氷漬けにでもなったが如く、いつまでも座り込んでいた。
風が歌いながら舞っている。それ以外に音はない。きっと黒と白の闇が吸い込んでいくのだろう。
ごく自然の習いで私の瞼は閉じられようとしている。
絶え間ない全身の震えは寒さのせいばかりではないようだった。
否、寒くなどない。できることなら喉が裂けても惜しくないほどに啼きたかったのだ。
私は独りになって今もなお独りであってそしてこのまま……。
狼は決して独りで生きていく生物ではない。
肉体的にも精神的にも温かな他の狼の体が必要なのだ。
私の身を切り刻んでいくのは荒れる風でも骨まで染み入らんとする冷気でもなく、その事実と失った過去に違いなかった。
ああ、やんぬるかな。
どうあっても私の口から漏れ出るのは音さえ伴わぬ切れ切れの吐息のみ。呼吸となんら変わらず、喉が裂けるどころか震わすことすらできぬ。
それでもまだ諦めたくない。
せめて傾きそうな体をやっとのことで踏ん張り、目を開け続ける。目を開けなければ私の青い瞳も吸い込まれてしまう。私の体はもう半分も雪に埋もれているというのに。
だがどうしても気が遠くなり意識を手放しそうになる。力など一欠片も残っていない。
座り続けているのが不思議なくらいだった。
また襲ってくる浮遊感に、本当に座っているのかどうかもわからなくなってくる。
いつの間にか瞑ってしまっていた目をこじ開けて確認しようとした。瞼が凍ってしまってなかなか開かない。
一瞬、夜が明けたのかと思った。
空を割って浮かび上がっていたのは絶え間なくたなびく光の帯と色の渦だった。
川のようにたゆたいながら空の端から端までを覆い、眩い翡翠色に流れて潤す。風鳴りしかなかった大気に低く腹の底を震わすような轟きが微かに、微かに渡っていく。
耳を澄ませても聞こえるものではなかった。それは感じとるものだった。
空の蒼よりも深く、木々の翠よりも鮮やかなそれは、しかし儚くゆらめき闇を駆け上がる。かと思えば陽光のように降り注ぐ。もしくは一筋の道を指し示す。
一瞬たりとも同じ形に留まっていることはない。
光の歌は続いた。この世界に黒と白の闇以外の色があることにどこか安堵しつつ、私はゆっくりと崩れ落ちていった。