05
私は全身を耳にして立ちすくんでいた。
先程聞こえてきた遠吠えは挨拶程度のもので、大した意味はないようだ。
遠吠えの余韻が消えてもなお、私はその場に佇み空気の匂いを嗅ぎ取ろうとしていた。
ここは境界、すなわち私の縄張りだったところの最後。あと一歩踏み出せば私にとって未知の世界が広がっている。
そしてこの向こうは別の狼たちの縄張りがある。
仲間に加えてもらうには最も手っ取り早くうってつけではあったが、私は隣の狼たちがどんな連中なのか知っていた。
厳密に言えば相手のアルファは私の父と非常に仲が悪かったのである。
彼はなかなか好戦的な狼で、よく父と小競り合いを繰り返していた。小さな群れであった私たちがそれでも平和に暮らせてこられたのは、ひとえに父のおかげだったに違いない。なにせ相手の群れの方が数は多い。
父は無口だったが頼もしい狼だった。そしてその力があの夜のような……。
私は慌てて首を振って記憶をふるい飛ばした。
それからもう一つ旅をする理由があった。
後ろ髪を引かれる思いと、どうしても振り返りたくないという相反する思いが絡み合っている。このままではきっと私は壊れてしまう。
私たちの群れに何かが起こったことはまもなく相手の知るところとなるだろう。常々私たちの縄張りを狙っていたから、この境界を乗り越えてくることは明らかだった。
どちらにせよ私はなるべく早く立ち去らなければならない。
そしてできる限り遠くへ行かねばならない。
私の縄張りは周囲を山脈に囲まれた谷間にあり、南側が隣の縄張りと接している。そして山脈は私の視界で左右いっぱいにそびえ立っていた。それが見晴らしのいい場所に登って眺めた全てである。
山を登って迂回するなら相手の縄張りに侵入せずにすむかもしれない。
しかし山の道は狼には適しない。特に今は大部分を雪に閉ざされて道など無きに等しい。そこに住まう生物たちを除いて、冬の山肌は険しい沈黙を守り続ける。
昔、私が生まれる前に死んだ仲間は草を求めて降りてきたドールシープを追って滑落したのだった。
裏を返せば山には狼の縄張りはない。しかし私は狼のいない土地に行きたいわけではない。危険を覚悟の上でどこかの群れに入れてもらわねばならないのである。
私は大きく息を吸った。
マーキングの際を通ることにする。南に向かうには縄張りをつっきるしかない。極力踏み荒らさないようにするつもりだった。
風を読み、匂いを調べる。あの縄張りから推測するに、群れの距離は近くもなく遠くでもない。
休息中や眠りから覚めたばかりであるなら、それだけ見つかりにくくなる。だが先程の遠吠えだけではわからなかった。
三回目の冬を間近に控えた狼が学んだ限りをつくして進み出そうとしている。
匂いをより細かく判別するには。音の出所をつきとめるには。風の動きをつかみとるにはどうしたらいいか。
わからなくなりそうになる。
群れにいたときはもっと上手くやれていたような気がしてもどかしく思うのは、不安に負けているせいだろうか。
とはいえこのような形で旅立ちを迎えるとは誰が予想できたろう。
空は白く濁っているのに雪は降っていなかった。痕跡を残してしまうのは致し方ない。
一度走り出したからには後戻りも立ち止まることも許されない。生き延びるにはひたすら前進するしかないのだ。
余計な想念を追い払い、雪を頂く背の高い針葉樹を縫うように走る。
マーキングはさほど新しいものではない。まだこの近辺には見回りにきてはいないということだ。これが何を意味するか、走ってみてその理由がわかった。
地面の起伏が激しい上に雪が柔らかくてとても走りにくいのである。身を隠しやすいために、まばらではあるものの比較的木々がある境界の右側を選んだのだが、地の利を生かせない私にとっては諸刃の剣となりそうだった。それでも慎重に足を運びながら速度を落とすことはしなかった。
どれくらい走ったものか、太陽の位置は厚い雲に隠れていてうかがい知ることはできない。
しばらくは拍子抜けするくらい静かで動きはなかった。
風は常に北東から吹き、おそらくここの群れは私よりも私の縄張りの異変に先に勘付くことになるだろう。
しかし私はある一つのことを失念していたのだと気づかされた。というよりこれは全くの偶然のようなもので予測しようがなかった。
たとい狩りの合図が聞こえなかったにしても夜に出発することを避けたのは、狼というのは夕暮れ時から明け方にかけて行動することが多いからである。といっても狼の行動は常に一定というわけではないのだが。
だから先程の遠吠えに何か意味があるわけではなかった。
しかし別のものが警告の声を発してしまったのである。
カササギのけたたましい鳴き声が辺りに響き、黒い影が飛び立つ。
思わず立ち止まってしまう。耳に届くのはカササギの羽音と声、そして風に揺れる木々のさざめきだけ……狼たちの声はない。
我に返って再び前進する。
そう、ただオオヤマネコが侵入しただけかもしれないから。
もしくは冬眠前のハイイログマがうろついたためかもしれない。
狼の縄張りはかなり広いのだ。丘から眺めただけでは詳しい距離はわからない。いちいち取り乱していてはその足は確実に鈍くなる。
そう気を取り直したのに、だ。
カササギの存在など忘れかけた頃に突如として空気を破った遠吠えは、私の頭を真っ白にさせるには充分だった。
それは気軽な挨拶ではなく、はっきりと異変を警戒する張り詰めたものに違いなかった。
私は雪を蹴る。
声はだいぶ後方から聞こえてきた。間を置かず立て続けに響く遠吠えは徐々に興奮した色合いを帯び出す。
間違いなく私の縄張りの異変ではなく、そこを抜け出して侵入した一頭の狼の存在に気づいたのである。
もうすぐ縄張りを抜け出せるのか、それともまだ中程しか進んでいないのかもわからぬまま、急にせり上がってきた心臓を飲み込んで遮二無二丘陵を駆け上がる。
私の縄張りと境を一にした付近は当然のことながらより強いマーキングが敷かれている。おそらくその見回りに向かったか何かで、私の痕跡を捉えたのだろう。
私にはわかる。彼らが一散に私目指して駆けているのを肌で感じとれる。
短い吠え声が聞こえる。まだ距離はあるようだが、未だ出口が見えぬ中で果たしてどれだけ持つのか。
通い慣れている彼らなら近道も知っているだろうし、二手に分かれて挟み込むこともできるのだ。
とにかく走り続けるしかなかった。
雪が深いところがあって足をとられる。腰まで潜り込む体を抜け出すごとに四肢に重苦しさが加わっていく。慌てて抜け出そうとすればするほど周りの雪が崩れてきて余計に重い。あっという間に苛立ちだけが募る。
次に聞こえてきた声はだいぶ近い。
もはや全然進んでいないのではないかという気持ちにさせられる。そして地面が隆起していてずっと登りが続いている。呼吸が跳ね上がった。
もしかしてというごく小さな期待がちらつき始めていた。本当に進みづらくなっているのである。
それでも声はどんどん近づいてくるからたまらない。
風が変わればすでに彼らの匂いがおぼろながらも嗅ぎ取れるまでになっている。今にも激しい息遣いが聞こえてきそうだ。
「違うの!私はただ縄張りを通らせてほしいだけなの!」
気づいたら叫んでいた。
しかしそれで止まる彼らではないのは知っている。
とうとう雪を蹴散らす音と唸り声とを後ろに聞くまでになった。横合いからも興奮した声がする。木々をすかして疾走する影が目の端にちらつき始める。
おそらくもうすぐ囲まれる。
荒い息が拍車掛かると思ったら、私は引っくり返り地面に叩きつけられた。倒れたら終わりだ。囲まれれば命はない。すぐさま起き上がり走り出す。獰猛な吠え声が私にまとわりついて、牙が鳴る音まで聞こえる。
私の横に並んだ一頭はおそらくアルファ、剥き出しの牙を根元まで見せ、私の首めがけて飛びかかってきた。辛うじて横に跳んで避ける。
後ろ足に、尾に、牙がかかる。それを必死に払い、知らぬうちに私の喉から弱々しい哀訴の声が零れた。
また噛みつかれ、後足や胴に痛みが走る。
それでも絶対に二度とは、と思っていたのにまたしても引っくり返された。
この局面を何事もなく逃れ出たのはせめてもの幸運だった。窪地の方へ転がった私はちょうど木の裏側に落ち、ほんの僅かではあったが狼たちが四方を塞ぐのを阻んでくれたのだ。
後足の負傷に関わらず、間髪いれずに立ち上がれたことを褒めさえしながら、私は唸った。すぐ後ろに追いすがっていた狼がまだ仔狼といっていいほど若かったのを見越してのことだ。
案の定微かに怯んだのを確認することなしに、私は地を蹴る。派手に雪を散らしているのもすがるような思いから。もちろん大した効果なぞあるはずがない。
心臓が皮膚を破らんと叩き出したときに、私の元にマーキングの匂いが飛び込んできた。木々の間に薄らと張られている。
それが境界に違いなかった。
もはや雪にしがみつくようにして走っている。血が滲むほど歯を食いしばり、一気に駆け上がった。
私は境界を抜けた。