04
光の粒が躍るようにさざめくのを瞼の裏に感じて目を開いた。
白く固まった大地が日の光を受けて星のように輝いていたのだった。それが眩しくて私は再び目を瞑る。
重苦しさはなく、体が軽い。
やはり昨夜のことは夢だったのだ。立ち上がり伸びをする。
淡い青をした空は仄かな陽射しの温もりを地上に投げかけている。あの陰鬱な闇も無音の雪もなく、晴れた空ときらめく大地が美しく穏やかで私はしばし見惚れていた。
とても嫌な夢を見た後だったから、胸に沁みて満ちていく。私は周囲を見渡した。
早く皆の姿を見てあの悪夢を消し去りたかった。どうして近くにいないのか不思議に思う。私は進み出した。
やはり冬というのはとても静かである。ワタリガラスの鳴き声が聞こえる他は、特に耳につく音はなかった。
もうそろそろ父と母が起き出してもよい頃だろう。朝の遠吠えが始まるかもしれない。
私は一心に耳を澄ましながら丘を登る。
そしてさほど進まないうちに黒い影を見つける。横に流れた風のために匂いがわからない。
唐突に動けなくなる。
窪地にすっぽり落ち込んでいるその影。
垂れ下がった青い舌、濁った目は虚空を向き、四肢は木の枝のように捻じ曲がり不自然に宙に突き出ていた。
顔中を朱に染め、事切れた体は。
悲鳴をあげて飛びのく。
毛が逆立ち、頭から尾の先まで一気に戦慄が駆け巡る。
私はわけのわからぬ叫び声をあげて走った。
違う、あれは父ではない!どこか別のところから来た狼で……。
荒れ狂う思考がめちゃくちゃな理屈を作り出す。全身を覆う恐怖で足をもつれさせながらも、なんとか尻込みしそうになる気力を奮い立たせる。
だが無情にもこの目で確認する間もなく、一つの事実を知ってしまった。
早朝からワタリガラスの騒々しい鳴き声が聞こえてきたわけを。
そして染みのような黒い影が空に溢れ出し、一斉に地上のある地点を目指していることを。
それはそのまま道しるべの役割を果たしていた。
いつまでも震えが止まらない顎を噛み締め、私は進まなければならなかった。足腰に全く力が入らない。
私が見捨てた小さな体。
そしてその先はカラスたちの饗宴と化している。
唸り声をあげて突っ走る。何羽かが舞い上がるが、たった一頭の狼の邪魔など気にもとめず、またすぐ近くに寄ってくる。
辛うじて母とわかる体。
そして兄の体。
噛まれた弟と外傷のない妹の体。
花が咲いたような鮮血とその残り香が目に突き刺さった。
誰も起き上がらず、朝の遠吠えをしてくれない。
私が鳴いたら、答えてくれるの?
次々に舞い降りてきては群がろうとするカラスたちを追い払っている。
だがそれは全くの徒労でしかない。穢れのない大地に黒い染みを作り、じわりじわりと広がっていく。
私はわめき、暴れた。カラスたちの瞳の色に無性に腹が立ってくる。
「私の家族をそんな目で見るな!」
追い払っても追い払っても湧いて出てくる。そして黒い染みは私によって見捨てられた妹と父の方にもその手を伸ばす。
何も考えずにそちらへ向かって飛び出した。
「あっ……」
そんな私をあざ笑うカラスたちの耳障りな声。私が背を向けるとあっという間に黒山となっていく。
私は泣きべそをかきながらうろつくしかない。まるで道に迷った仔狼そのものであった。
「お願い、やめて……」
力が抜けて座り込む私に昨夜の残像が過ぎる。凄惨な雪の闇の内に、しかし私は一つの閃きを見た気がした。
私の横にいて、知らぬうちに別の方へと逃げた弟。
弾かれたように立ち上がった私は慌ててその匂いを求める。降り続いた雪のせいで匂いはわかりづらいが、一心不乱に地面に鼻をこすりつけていくと、右の方にその痕跡を見出したのだった。
はやる気持ちを抑えて途切れ途切れの匂いを追う。匂いはずっと右上へと続いている。
余程の恐怖に駆られていたのだろう。カラスたちの饗宴はみるみるうちに遠ざかっていく。
お願い、お願いだから私をひとりにしないで……。
草藪が疎らに生えた先は崖に近いほどの急な斜面になっていた。斜面には所々大きな岩の塊が半分雪に埋もれながら突き出ている。
一番下へはそれなりの距離があり、目を凝らすと黒い小さな点があった。
雪から突き出た石なのかと思ったが、それを一頭の狐がくわえている。
狐は私を見つけると驚いて逃げた。距離を取りつつ、なぜ下りてこないのか怪訝に思ってでもいるのか随分と時間をかけて私の様子を窺っている。
やがて狐は安心したように戻ってくると、再びその黒いものを引っ張り始めた。
昨夜とは打って変わって雪は降らず、風もそよとも動かぬ空虚な夜だった。
私の感覚は霧散して、おぼろな月の下、まるで透明な膜にでも包まれているようである。全てがぼやけて夜に溶け出していくのだった。
あんなに細く遠い月があるのが不思議だった。星もない。薄ぼんやりとした弱々しい光では雪に覆われた地面もくすんだ灰色にしかならない。
私の毛は雪に紛れてしまえるのだという。
ならばこのまま雪になってしまえばいいと願う。こうやって微動だにせず横たわって固く目を瞑っていれば、白い体は雪と同じになるだろうか。雪が降ってくれたらもっとよかった。
私に触れてくるものは何もない。
この膜のような夜のせいで私の感覚が溶けていくというのなら、この意識も溶けていってくれないものか。
しかし私の本能は正反対のことを命じる。
私はそれにずっと逆らい続け、ここにこうして横たわったままでいた。
私はこの地で生まれ、育ってきた。ようやく馴染んできた住処だった。そして家族と共に駆けていくのはこの上ない喜びに違いなかった。
乳離れのできぬ仔狼に戻った気さえする。
いっぱしの自信を気取っていたことが滑稽に思えてきて仕方なかった。
考えまいとしていたことが蘇ってきてしまい、胸が詰まって息もできない。
目が回るほどの壮絶な寂寥感の渦から抜け出そうと、私はまた雪になりたいなどとくだらないことを思う。そして意識を溶け出させるためにやはりじっとしたまま動けない。
本能の警句はそれに反比例して次第に大きく強いものになっていった。
ここはどこまでも私と私の家族の住処だ。
そう思うと同時に昨夜の凄惨な出来事に全身を貫かれる。
ここは住処などではない、墓場なのだ。
本能はもっと現実的なことを伝えている。
ここが私のよく知る住処だとしても、このまま独りで暮らすことは不可能である。
これから一段と厳しさを増していく冬の地で、私が獲れるような小動物はほとんどいない。飢えから逃れるには群れでしか倒せない大型の獲物を狙うしかない。
そしてそれは絶望的であると。
悲しいことだが死という選択肢は本能に組み込まれていないのだ。
だからこの夜だけ、ここにこうしていることを許してほしい。
私はこの地で生まれ、育ってきたのだから。
想像以上の努力を強いて身を起こした。
私はようやくわかったのだ。私が成長して大人の狼となったから、世界の輪郭がはっきりしたものになったのではない。
守り守られ、その間に挟まれていたからこそ、この目に映るものは鮮やかな色を纏っていたのだと。
なぜなら今、この夜はこんなにぼやけている。
無理やり天を仰いだ。
返ってこない遠吠えがこんなに辛いものだとは思わなかった。
私は啼く。か細い声を振り絞ってできるだけ長く。顎や喉がとめどなく震えているけれど懸命に押し出す。間を置かずに、息が苦しくなるのも構わずに立て続けに声を重ねていく。一瞬でも途切れてしまったら、独りで啼いていることがわかってしまうから。
きっと月まで届いたのだと思う。月はぼうと光っていつまでも滲んでいた。