03
北国では秋は瞬く間に過ぎ去って、ささやかな風の中にもはっとするような鋭さを含んで毛の隙間に潜り込んでくる。
それと同時に風が変わったことが匂いでわかった。こうなると、なだれ込むように冬はやってくる。昼も見る見るうちに短くなっていった。
微かにでも何かの前触れを嗅ぎつけて予感することはできても、その何かが実際に起こるのは突然で、気がついたらいつもその真っ只中にいる。冬はその足音を響かせながらも、一足飛びにやってきて北国の大地から色という色を奪っていくのだ。
ただ予感があるということはそれなりの準備が可能ということでもある。私たちの毛はどんどん厚みを帯びていって多少の風も寒さも構いつけなくなった。
私はまだ若い。日ごとに研ぎ澄まされていく感覚で、一つ一つの事象を嗅ぎつけて認識することに誇りを覚えていた。
私は咀嚼するように色んなことを感じ取れた。冬の訪れも、獲物が移動を始めたことも、逆に冬篭りを始める生物たちのことも、他の狼の群れのことも。大気の流れも空模様も。
狼たちはそれらを全て把握して冬に備える。私の自信は決して若さゆえの驕りなどではなかったのである。
だから、嗅ぎ取れないものが存在することに気づけないでいた。
認めざるを得ない経験不足。だがこの場合、それを原因の一つに挙げることはできない。
なぜなら、群れの誰もが一切予想だにできなかったのだから。突然くる嵐もあるのだなどと、顧みる余裕すらない。
途切れることなく降りつのる雪が足下で次第に固くなっていく。世界は白に侵食されつつあった。そんな様子を私はぼんやり視界に収めていた。雪があらゆる息吹を吸い込んでいくようである。
木枯らしが物悲しげに雪を巻き込みながら鳴く中、私はそこで奇妙な音を聞いた。
雪の中、無駄に体力を消耗しないよう休んでいる家族、一見何も変わらぬようで、でも私はすぐに違和感に気づく。
父がいない。
母の横にいつもあるはずの姿はなく、しかし私はこれといって疑問を持たなかった。父が独りでどこかへ行くのは少なくない。大方、縄張りの見回りにでも行っているのだろう。
狩りを始める雰囲気はまだ群れにはない。私は上げかけた顔をまた前足の間に埋めようとしていた。
くつくつという音がする。
父へと意識を向けていたせいで、ついこの間の記憶を思い出す。
ヘラジカを追跡していたときのこと、先頭を切る父が突然妙な具合に足をひきつらせ、しきりに後ろ足を気にしていた。確かにそこに小さな噛み痕があったが、本人も覚えていないだいぶ前に受けたものらしくほとんど目立たなかった。大丈夫と答え、しばらくして進み出したが、何かぴりぴりと痺れたのだという。その後は特に何事もなかった。
くつくつという音がする。
アルファが歩けなくなるくらいの怪我をしたり病気になったり、または老いたりして群れを率いる力が無くなると、次に代わらんとする野心的な下っ端が出てこない限りは時に群れに大きな混乱を招くことがある。
よしんば台頭者が出てきたとしても、新しいアルファの掟を群れに染み込ませていくのは簡単ではない。変革はそのアルファの如何で、より強固にもなるし、誤れば群れが解体する恐れも孕んでいる。
父も母もなんといってもまだまだ力はある――少なくともあと二、三回は仔を産むことができるだろう。
だから差し当たって心配する必要はなかった。だが次を背負って立つのは紛れもなく兄か私だ。それを思うといささか不安に駆られる。力不足という意味ではなく、それだけの自信がまだ持てていないのだ。
まあこれからすぐアルファになるわけでもないし、それどころかまだ何も成し得ていないのだから当たり前か。
取り越し苦労を自嘲しながら、私は雪に包まれてまどろみ始める。
それにしても、このくつくつという音は、一体何なのだろう?
私はようやく体を起こし、辺りを見渡す。
しばらく耳を澄ましていると、くつくつという音が息遣いであり、しかもそれが次第にあり得ないほど早く、荒くなっていくのがわかった。心臓の鼓動もかくやとばかりの、狂ったように逆巻いていく呼気。
一体いつ息継ぎしているのか。
そう思ったら、ひきつった笛のような音が耳障りに混ざり出す。そのときだった。
空気を裂く大絶叫が鼓膜を揺さぶる。
死を迎えんとする獲物の断末魔の声とて、これほど強烈ではない。だがそれに似て苦痛に塗れているようであり、同時に狩る者があげる渇望の咆哮でもあるのだ。
いずれにせよ、これほど邪悪な声を私は知らない。もっというなら生物の声ですらない気がする。
一同が飛び起きたと見る間に、黒い影がさっと目の前をかすめ、先程とは別の悲鳴があがった。
それは兄の声だった。
信じられない光景を私は見た。そこに立っていたのは私の父だ、何かをぐちゃぐちゃと咀嚼している。
横を向いているために父の顔はよく見えない。そしてその足元に力なく倒れた兄の顔は噛み千切られて無くなり、血で覆い潰されていた。
まるで別の生物が存在しているかのように喉の奥が大きくひくつき、唸り声とも笑い声とも知れぬ音が漏れたかと思うと、父は横に飛んだ。仔狼の一頭に噛みつこうとしている。
そのとき母が渾身の力で父に突っ込んでいった。
捨て身の体当たりでその狂牙は避けられたものの、逃げ遅れた不運な妹は結局雪の上を転がる父母の下敷きとなって動かなくなった。
「逃げなさい!」
大柄な父に組み敷かれ、苦しい息の下から母が精一杯の声をふりしぼる。私は逡巡し、母を助けるべきか残った仔狼たちをつれて逃げるべきかわからない。
父が顔を上げ、私は直に目が合う。おびただしい量の涎をまき散らし、顔中兄の血に塗れている。せり出して血走った両眼は完全に焦点が合っていなかった。
小刻みに震え、また喉が絶え間なく上下しているのにも関わらず、父はそのまま母の首に噛みついた。
とても見ていられない。
母の細い首をがっちりとくわえて思いきり振り回す父。雪が舞う中、躍るように母を引き裂く父。体の部位が千切れていく音がする。
幻影のようにそれらを目の隅に追いやり、私は三頭の仔狼をつれて逃げる。
しかしさほど進まないうちに一頭いないことに気づく。慌てて振り返ると、おぼつかない足をひたむきに、母を求めて鳴きながら戻っていく。
「駄目!行っては駄目よ!戻ってきなさい!!」
あれが父のはずがない。
この雪の冷たさがなければ、悪夢のせいにできるのに。
私は走った。
口に五ヶ月にほど近い妹をくわえて。
力というのは思いもよらぬところで湧き上がるものだ。だけど重い。どうしようもなく重くて、顎が震えている。
くつくつという音がする。
私の横を走っていたカロがいつの間にかいなくなっている。別の方向へと逃げたらしい。少なくとも一頭は無事に逃げおおせたことに僅かに安堵する。
でもまだ口の中の彼女がいる。冷たいばかりの世界で、唯一感じられる温もりだった。
この白い体は雪に紛れて見えづらくなるのではなかったか?
私の身のこなしは風のようなのではなかったか!
くつくつという音が耳を打つ。
雪が隠したのは私の体ではなく、足元の石であった。私は体勢を崩し、妹を離してしまう。
大地に投げ出され離れ離れになる私と妹。
それは全くの本能だった。
あるいはくつくつという音が耳につきすぎていたためかもしれない。
私はすぐに地を蹴ったのだ。無防備に腹を出した彼女の方ではなく、その反対へ。
早く早く、この悪夢よ、消えておくれ。
何かが砕ける音が響く。
ただ静かに降りつのっていた雪は、夜と共に強まった風に煽られて細かに吹雪いてきている。
風が葬送歌を歌っている。
雪は滂沱となって。
大地は不気味なほど白い。目に突き刺さるほど白かった。もしかしてこれは血なのではないだろうか。
くつくつという音がする。
私はもう全身が痺れていた。体の感覚がない。四肢が大地についてないかのような浮遊感に悩まされ、全てを投げ出したくなる誘惑に駆られる。
このままいきなり倒れたら、死んだものとして放っておいてくれるか。なんて馬鹿な考えが過ぎりだす。
おかしい。狼は並外れた持久力の持ち主なのに、どうしてこんなに疲れているのだろう。
仔狼たちを守るどころか見捨てた私は所詮生きるに値しない、そういうことか。
くつくつという音がする。
吹雪く雪と夜の闇に視界が閉ざされた。しきりに霞む目で見通そうとする。その空のような目を懸命に開けて。
縄張り内のはずなのに、どこを走っているのかわからない。
何の匂いもしない。
くつくつという音がする。
月がどこまで昇った頃だろうか。
なぜくつくつという音以外、何も聞こえてこないのだろう。
どうして、何も、見えないの。
ああ、そうだ。やはり私は夢を見ていたのだ。
そしてとうとう何も聞こえなくなった。