02
礫の如き雪が滅茶苦茶に吹き荒れている。
ブリザードが訪れたのだ。
これからは生物の影も見当たらない。狼にとっても試練の冬になっていく。
視界は一寸先も見えぬ白い闇に閉ざされて、昼も夜もわからなかった。
私はおもむろに立ち上がると駆け出す。
獲物を追うためでも好きなように走り回るためでもない。
早く言えば、何もない。
群れから、仲間たちから次第に遠ざかっていく。
何も考えられぬうちに飛び出したのだ。
少しでも考えてしまったら絶対におかしいと思ってしまうから。
この見通しの悪い雪の狭間を独りで走るのは随分と馬鹿げた行為でしかない。
我に返った本能が猛烈に叫び始めた。
そのためにほんの少し立ち止まらなくてはならぬほどに。
その度に私は唇の端を吊り上げてあざ笑ってやる。
そうだ。こんな空の下、私がしようとしていることは全く愚かだ。
折角助かった命を無に帰そうとしているようなものなのだから。
早く戻れ。お前は死にたいのか。
違う。死にたいはずがない。
なら一刻も早く戻れ。死ぬかもしれない。いや確実に死ぬ。
……わからない。もしかしたらまた上手くいくかもしれない。
私はこの群れの境界に向かって進んでいるはずだった。
そんなわけない。この雪嵐の中であのような幸運はもう二度と来ない。ここを出たら次はない。戻れ、そして彼に報いろ。
報いろってどんな風に?
彼の願いを受け入れ、アルファの座を勝ち取れ。それがお前の生きる道だ。
リーベは、仔狼たちはどうなるの?
知ったことか。それが野生の、狼の掟だ。強い者が勝ち残る。お前は命が惜しくないのか?
惜しい。生きたい。
なら……。
私は足を速めた。もう何度立ち止まったかわからない。これ以上惑わされたくない。もうここまで来てしまったから。
そう、後戻りはできない。
アンドゥルフの言う通りに行動すれば勿論のこと、何もしないにしても、私が留まる以上はあの群れの秩序が損なわれるだろう。
死ぬかもしれない?
そんなことはわかっている。
私は冷えた笑みを張り付かせながら前へ進む。わかっているから何も考えず、ほとんど衝動的に飛び出してきた。
それに闇夜を照らすあの光が現れて、また私を導いてくれるかもしれないのだから。
そんなわけのわからぬ理屈にでもすがりつく私は、情けないほど心許なくて弱かった。
振り払うために走るしかなかった。
勘と頭の中の地図だけが頼りだった。方角はこの際どうでもいい。ともかくこの縄張りを出ること、それが何よりも重要であった。
私は立ち止まり辺りを見渡した。今度はちゃんと現実的な理由からであった。
雪を透かして木々が何本か見える。まだもう少し先のはずだ。
私は足を踏み出そうとして、違和感にその動きを止める。
この吹雪だから気のせいとも言えなくもない。
しかし私はまだ何も見えていないにも関わらず、己が次第に喜びに打ち震えているのを知った。尾が揺れるのを抑えきれない。
信じがたい気持ちで不安すら覚えてしまう。
白の世界から薄らと影が現れ、徐々に大きくなっていくうちにそれは狼の形となって近づいてくる。
間違えようもなく彼、アンドゥルフだった。
堪えきれずに走り寄る。
「どうして?」
すでに全身を巡った喜びは鳴りを潜めており、私は少し眉根を寄せ平静であろうと努めた。
「お前は」
息を切らすことなく目の前に立ったアンドゥルフはそんな私をじっと眺める。
「よほどの愚か者だな。この吹雪でどこへ行く?死ににでも行くつもりだったのか?」
「貴方こそ、どうしてここに来たのですか?」
「俺が気まぐれでここまで来たと思っているのか?」
「まさか……私を追って?」
「他に何がある」
その言葉に我を忘れそうになった。
彼以外の気配はない。ということは独りでここに来たのだ。私を追ってきたということ。私を連れ戻すつもりなら群れで来るだろうということ。
そもそも勝手に群れから抜け出すなら好きにすればいいのだ。わざわざ連れ戻すなどという労力を、しかもこの天候の下で払う必要はない。
私は興奮ではち切れんばかりに尾を振りつつも、この吹雪が一陣私の胸に入り込んできて心臓をひと撫でするのを感じた。
私は最も言いたくないことを言わねばならなかった。そのために少し下がって深く息を吸わねばならないほどだった。
「……戻ってください」
だが彼は唇を薄く持ち上げるのみだった。
「群れに、戻ってください」
声が震えるのはどうしようもなかった。しまいには目を瞑ってしまった。
そうすればもし、もしそうなったとしても吹雪が魅せた幻だったということにできるから。
くぐもった笑い声が聞こえ、私の頬に温かいものが触れた。
「アルファが群れを抜けることの意味がわかって言っているのか?それにもう俺はアルファではない。お前も、その言い草をやめろ。俺の片割れなのだからな。さっさと行くぞ。無駄口を叩いている暇はない」
私はまだ動けなかった。
本当に彼を行かせてよいのだろうか。
彼を連れ去るような形になってしまってもよいのだろうか。
それでももう大丈夫と強く聞こえてくる。
彼となら生き延びられると。
私はその声に従った。
「アンドゥルフ……貴方も愚か者なのよ」
幾日ぶりになるだろう心からの微笑を浮かべて、私は彼の耳を噛んだ。
片割れ。
全く正反対の存在。
宿る色。
闇と雪の中で出逢った二頭の狼。
もう恐くなどなかった。