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07

 時おり寂しげな風が木々の間を渡り、遠くで枝が雪を下ろすささやかな音がする以外は無音の夜。



 しんと張り詰めた闇の中、満たされた腹と狩りの心地良い疲れとに絡め取られ、狼たちは身を休めていた。

 群れは広々とした丘陵から森林地帯へと拠点を移していた。

 木の傍や藪の中に窪みを作り、柔らかい雪のしとねに包まれ深い眠りを守ってもらう。

 森と湖とによく恵まれた縄張りだ。今いるところはちょうど縄張りの中程、最初にカリブーを狩った地点からさらに進み、別のカリブーの群れも狩り続けていた。


 みな思い思いに気に入った場所を探し出し、心ゆくまで安らぎの内に籠もる。

 私もまた例外なくまどろみに落ちる。

 静かで冷たい宵は、しかし梢の狭間に見事な月を浮かび上がらせ、星々を引き連れて雪に皓皓たる輝きを与えていた。

 私は一旦座り直すと再び丸くなろうとした。


 そのとき雪の上に不自然な影を見つけ、目が冴えてしまう。


 そこに浮かんでいたのは星が落ちてきたのかと思うほど艶やかな緋に瞬く瞳であった。


 私は驚いて仰け反り、危うく大声をあげそうになる。

 アンドゥルフの体は完全に闇に溶け込み、微光を放つ大地の元で異様な輪郭を作り上げていた。


 闇が私の名を呼んでいる。


「こい」


 背を向け、雪を踏む音すらさせないのに力強く悠然と歩む。

 まるで闇が形を持ち夢を侵食していくかのような錯覚を覚えて私は身震いした。


 従うべきか?


 少し進んだところでまた赤い光が見え、じっと浮かんでいる。


 彼はアルファだ。私が従わないはずはない。


 私はそっと立ち上がり後を追った。




 よく眠っているとはいえ、こうやって抜け出せば気づかれるのではと思ったが、森は相変わらず静寂を保ったままである。

 私もまたなんとなく足音を忍ばせているので、もやのように流れていく息と共に僅かな呼気をも許されないような気さえして苦しくなる。

 耳をそばだてれば己の鼓動がやけに疎ましかった。

 闇に紛れた彼は匂いでしか辿ることができぬほどである。



 森を抜けると湖に出た。

 周囲を木々に囲まれた中で、凍って雪に埋もれた湖の跡はぽっかりと穴が開いたようだった。まっさらな雪が月光に照らされ目を射るほどに光沢を帯びていた。

 暗い森を進んだ後ではあまりに眩しくて瞬きを繰り返す。

 冴え冴えとした鋼色の満月が巨大な(まなこ)のように見えた。ならばもう片方の眼は太陽なのだと妙なことを思った。

 月はいま仄青い燐光を帯び、薄雲一つない空は綺羅星を集めて遥か先まで満ち満ちていた。


 白く固まった湖の中程に私たちは立っている。


 黒い背は微動だにせず、月を眺めているのか遠くの山々を見つめているのかわからなかった。


「ここにはもう慣れたか?」


 しばらくしてアンドゥルフは振り返らずに問うてきた。

 低く、風が撫でるように静かな声だった。


「はい」


 答えてみてもっと言葉があった方がいいように思え、急いで付け加える。

「まだ少し戸惑うこともありますけど、だいぶ慣れました。その……皆にはとても良くしてもらって……」

 その言葉尻こそが惑い、中空でさ迷ったまま吐息に紛れて消えていった。

 私は依然として不安のうちに彼の背を見つめている。まるでそこに答えがあるとでもいうように。

 そんな視線を知ってか知らずか彼は少しばかり振り返り、横顔だけをこちらに見せた。

「ではここと、お前が以前いた場所とではどちらが住み良い?」

 今度こそ私は答えに窮してしまった。

 彼の背を見つめても、緋色の瞳が問いかけてくる。そこから逃れるように視線を落とす。

 私の四肢はどちらの大地を好ましいというだろうか。

 彼の手前、どうしてもこの新しい地と言わねばならないのはわかっている。

「……わかりません」

 しかし私の口から出たのは私の意志とは反したものであった。

 私は少し驚いた。

 彼が笑ったのだ。

 声と同じように低くて聞き違いと思えてしまうほど僅かなものであったが。

「お前は一体どこから来たのだろうな」

 私は振り返った。見つめる先は言わずもがな、私がここにやってきた方向である。


「お前が来ることはわかっていた」


 いつの間にか向かい合うような形となり、その瞳を間近で捉えると私の中で巡る問いが噴出した。

「何故ですか?空に浮かんでいたあの光ですか?貴方も見たのですか?それに……私は自分がここまでどうやって辿り着いたのか、どうしても思い出せないんです。あのとき私は死ぬ寸前で、どう考えたってここまで歩いてこれる力など残っていませんでした。貴方は知っているんでしょう?教えて下さい。私はどうやってここまで来たのでしょうか?」

 そんな私を見つめる彼は口の端を微かに吊り上げて謎めいた笑みを浮かべた。

 焦燥にも似た思いに駆られていた私は急速に冷えていくのを感じた。

 再び静寂が戻ってくる。

「死にかけてまで、お前が独りでここに来た理由はなんだ」

 私の問いには答えないのに……喉元までせり上がる不満を飲み込むのは骨が折れる。

 しかし私もまたこの問いには持ち合わせる答えはない。

「すみません」

 軽く(こうべ)を垂れ、束の間目を瞑った。

 今ここにおいてもなおぴりぴりと痛む傷を皓月に言付けて全てつまびらかにすることはできないのだ。

「それは俺でも言えんことか?」

「……はい。申し訳ありません」

 だからこうしてうな垂れ、謝意を示しているつもりだ。


 沈黙があった。


 もしかしたら彼もまたアルファの権威をかざして私を叱責するのかもしれない。だからここに連れてきたのかもしれない。

 彼らからしたら折角群れに入れてやったのに、一番肝心な事を明らかにせず秘密を持ったままのうのうといるのは面白くないに違いない。

 本当にすまないような気持ちになってきて眉根に次第に皺が寄ってくる。

 彼がアルファであろうがなかろうが、怒られたり噛まれたり何をされても甘んじて耐えよう。


 私はオメガ、そしてよそ者の狼なのだから。


 ところがややあっても沈黙が広がるばかりで私はそろそろと目を開けようとした。

 不意に生温かいものが額に触れた。

 アンドゥルフがさらに近づいて私の顔を舐めている。

 私はうろたえ後ずさった。

「だがそんなものは俺にはどうだっていい」

 一瞬何を言っているのかわからない。


 ああそうだ、私が旅をした理由……。


「お前が来たのだからな」


 視界いっぱいに黒の影が映り、覆いかぶさるようにまた私を舐める。目と目の間、そして鼻筋を彼に似合わないくらい柔らかく丁寧に。

 私は飛びすさった。

 思考が渦を巻いているせいで彼の行動の真意が読み取れない。

 仲間内でするように親しみを込めたものである、とは簡単に言えないような気がして、でもそれ以上に何があるというのか?


「……それはどういう意味でしょうか?」


 謎を謎でしか返さぬ彼に明瞭な答えなど望むべくもない。

 まるで私が来ることを最初から知っていたかのよう、そしてゆるりと細められた瞳には何を宿して私を見つめる。

 思えば存在からして不可解に違いないのだ。

 一点の濁りない漆黒の毛とその緋紫の瞳。

 あり得ないのだ。特にその瞳は。


 でもそうしたら、私も……。


「言葉の通りだ」

 充分警戒して距離を取っているはずなのに、いつの間にか彼は私の目の前にいてまた舌を伸ばす。

 私の両前足の間に一歩踏み込み、体を押しつけてくる。

 安らいだ吐息と共に顔や唇を丹念に舐め上げる舌は、明らかに毛の下の皮膚までも探り当てようとするかのように蠢いた。

 私はとうとう声をあげて逃れようとした。

「お前もまた、他の連中とは違うんじゃないのか」

 私の思考を読んだかのようだった。彼は私の体に前足をかけ押さえ込んだ。

 前足一本くらいと思ったのに、振り払えるどころか引き寄せられていく。

 恐怖から思わず唸り声をあげた。

 彼はまた笑う。

 後ろに回り込もうとしているのを知って、曖昧だった真意を唐突に理解した私は相手がアルファであることも忘れて叫んだ。

「一体何を……。あ、貴方にはリーベがいるでしょう?!まさか、嘘でしょう?!」

 彼は無情にも私の尾を軽くくわえてみせた。

「……っ!離して!!」

 大きく身をよじらせた私は一目散に逃げ出した。


 そしてはたと気づいた。


 背を向けて走る。

 それは追うという本能を呼び起こすもの。

 特に獲物を狩る者はより強く働く。


 しまったと思ったときには雪けむりを上げて転がり、彼の前足が腰をさらった。

「あっ……」

 引きずられ立たされる。

「大人しくしていろ。どうせ逃げられん」

 彼は私の腰を抱くとそんな言葉と共に耳を噛み、後足で尻を挟もうとする。

 せめてもの悪あがきで咄嗟にしゃがみ込む。舌打ちが聞こえ、尾の下に顔を突っ込ませてきた。鼻で押し上げようとしながら、その舌が探るように舐め回してくる。

 腹這いになった私に業を煮やしたのか、彼は私を引っくり返した。

「俺がアルファであることを忘れたのか?」

 緋の瞳の中に青い瞳が浮かんでいる。その言葉とこの体勢が私に劇的な効果を生んだ。

 本能がアルファには逆らえないと告げている。哀しいかな、脈々と受け継がれた狼の血が私の動きを封じたのだ。

 歯を剥き出して睨みつけられると私は萎縮し、許しを乞うべく鼻を鳴らしそうになる。

 意地で横を向いた。

 そんな私の首にあてられた牙は至極優しいもので、再び私の体を舐め始める。そして私を元の体勢に戻した。

 首の上皮を噛まれたまま立たされた私は思いきって頭を振り喉を伸ばした。

 その途端、広がった喉元に牙が食い込む。

 リーベからはかなりの制裁を受けるだろうが、いっそのこと大声で叫ぼうと思ったのだ。

 こんな僅かな動作だけで私の思惑をどうして読み取れるのかわからない。

 先程の甘噛みとは違う、まさに万力の如き力でぎりぎりと締めつける。

 私の上に覆いかぶさり羽交い絞めにしたまま、首をねじ曲げて喉の柔らかい皮膚を、しかも血が出ないようにしながら確実に器官を圧迫している。

 痛みと苦しさでだらりと舌が垂れ、次第に視界が霞んできた。


 今度こそ私を立たせ、腰の上に乗ったこともすぐには気づかないほどに。


 回された強い前足、後足で尻を挟み、律動が体全体に駆け巡る。

 激しさを増してくる動きに弱々しい悲鳴をあげ、反射的に腰を落とそうとすると、熱く大きなものが私の中に潜り込んできた。

「ああっ」

 痛みに貫かれ、全身が痺れた。

 従わないはずはない。どんな咎でも受けようと思っていた。だけどこんなことを強いられるとは予想だにしていなかった。

 異物が私の中をまさぐり、奥へと這い進んでいく。

「お前、この期に及んで自分が発情していることに気づかなかった。と言うつもりじゃないだろうな」

 喉奥を転がすように低く笑いながら囁いてくる。

 波打つ体とかき乱される刺激は脳髄まで甘い痺れを走らせ、足が震えて目眩がしてきた。


 そうだ、私は徐々に屈した。

 雌という本能に。


 荒い呼気が私の耳を撫で、温かい舌がそそのかす。

 半開きになった口から零れ落ちるのは甘えて乞う鳴き声。

 こんなに力強く精悍な雄に求められたのだ。

 体の内を焼く熱い液が溢れて迸り、私の中に吸い込まれていく。

 声が震えた。

 耐えきれず崩れ落ちた私を見下ろす彼は、尾と尾を絡ませて横に立った。

 異物は私の中にはまり込んだまま。

 慌てて立ち上がると繋がっているところが強く締めつけられた。


 潤んだ視界の中で緋の瞳はいまや炎となっていた。


「リーベに」


 舐め続ける舌の動きとは対照的にその言葉は酷く冷たく残酷だった。

 そしてそれは至極熱い吐息の元で耳朶に直接吹き込まれた。

「リーベに挑戦しろ。戦え、そしてアルファの座を奪え。あんな年増女なぞ、わけもないだろう」

「な、なにを……リーベは貴方の……仔狼たち、は……」

「あれらはもうすぐ独り立ちする。それにお前はあれらのうち一匹でも、俺の血を引いているように見えるか?あれはあの女独りで産んだんだ。俺の仔を産むのはお前だ。俺の片割れ」

 足元がおぼつかなくなってきて私は倒れ伏した。

 ようやく私を解放したアンドゥルフは満足げな微笑を浮かべて舌なめずりすると、私のいまだ熱いところを舐め続けた。

「気持ち良かっただろう?やはり俺とお前は合うんだよ。また楽しませろ。今度は連中の目の前でな」







 穢れなき美しき白銀の地に小さな点が狼の形を作り、いつまでも横たわっていた。

 白銀の色そのものでありながら、きっとどこまでも無垢な雪とは相容れぬに違いなかった。














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