第二章 追われる理由
街を抜けるまで、ユウは一度も振り返らなかった。
背中の重みが増したわけではない。それでも、振り返る余裕が消えていた。
足音を消すため、瓦礫の少ないルートを選ぶ。崩れた看板の影、傾いた高架の下、かつて人が行き交っていた痕跡だけが残る通り。風向きと視界を計算しながら進むのは、もはや癖だった。拾ったものが何であれ、まずは生き延びる。それが最優先だ。
背中で、微かに体が動いた。
ユウは歩調を落とさず、声だけを低く投げる。
「起きてるなら、喋るな。呼吸だけ整えろ」
返事はない。だが、呼吸の乱れがわずかに落ち着いたのが分かった。
それで十分だった。
補給庫から離れた旧市街の外縁部は、比較的安全だ。だが“比較的”でしかない。スカベンジャーが漁り尽くした場所は、次にレイダーが来る。あるいは、別の何かが。
ユウはそれを、肌で知っていた。
不意に、背後で金属音が鳴った。
反射的に身を低くし、壁に寄せる。銃口を構え、息を止める。
——違う。風だ。
安堵は一瞬で切り捨てる。油断は死に直結する。
再び歩き出した、その時だった。
「……ユウ?」
声は、背中から聞こえた。
掠れていて、弱い。それでも、確かに言葉だった。
「……起きるなって言っただろ」
「……名前……聞いてない……」
ユウは、短く息を吐いた。
状況判断と感情は、常に噛み合わない。
「ユウトだ。……たぶん」
「たぶん?」
「……覚えてない。気がするだけ」
その言い方が、妙に胸に引っかかった。
名前すら、確かな輪郭を持たない。その事実が、この世界の残酷さを凝縮している。
「今はそれでいい。喋るのは最低限にしろ」
「……助けて、くれた?」
ユウは答えなかった。
代わりに、歩調をわずかに上げた。
助けたかどうかを決めるのは、まだ先だ。生き延びてからでいい。
だが、次の瞬間、その判断を後悔することになる。
遠くで、乾いた爆音が響いた。
続いて、空気を切り裂くようなエンジン音。複数。数は……三、いや四。
レイダーだ。
ユウは即座に進路を変更した。正面突破は無理だ。隠れる場所を探す。
高架の影に滑り込み、瓦礫の山を越え、崩れた地下通路の入り口に飛び込む。
暗闇に身を沈めた瞬間、エンジン音が頭上を通過した。
レイダーの笑い声が、風に混じって聞こえる。
「……やばい……」
ユウトの声が、震えた。
「黙れ」
言葉は強いが、手は無意識に支えを調整していた。
背負っているのは荷物じゃない。そう意識してしまった時点で、もう後戻りはできない。
エンジン音が遠ざかったかに思えた、その時。
ライトの光が、地下通路の入口をかすめた。
見つかる。
ユウは歯を食いしばり、手榴弾を取り出しかけて——やめた。
爆音は呼び寄せる。今は違う。
代わりに、ユウトをそっと下ろす。壁に寄せ、口元を押さえ、視線だけで指示する。
動くな。音を立てるな。
レイダーの影が、入口に差し込んだ。
一瞬の沈黙。次の瞬間、罵声とともにライトが振られる。
その刹那、ユウは引き金を引いた。
音は一発だけ。
倒れた影が崩れ落ちる前に、ユウはユウトを再び背負い、奥へ走った。
逃げる理由が、はっきりした。
拾ったからだ。拾った以上、狙われる。
この世界は、未来を拾う者を、決して放っておかない。
地下通路を抜け、再び地上に出た頃には、空の色がわずかに変わっていた。
終わり続ける世界の中で、時間だけが律儀に進んでいる。
ユウトの呼吸は、少しだけ安定している。
ユウは立ち止まり、遠くの地平を見た。
「……なあ」
「喋るなって言っただろ」
「……それでも……」
ユウトは一拍置き、絞り出すように言った。
「……俺、追われてた……たぶん……」
ユウは、黙ったまま歩き出した。
答えは、もう分かっている。
追われる理由は、拾った未来そのものだ。
そしてその理由は、これから否応なく、明らかになっていく。
世界が、動き始めた。
世界が、動き始めた。
それは爆音や警報のような分かりやすい兆候ではなかった。むしろ逆だ。空気が一段階、静かになる。風の流れが変わり、音の輪郭が研ぎ澄まされる。長く生き残ってきた者ほど、その違和感に先に気づく。
ユウは歩きながら、背中の感触に意識を向けた。
ユウトの呼吸は浅いが、安定している。熱はある。だが、致命的ではない。問題はそれ以外だった。
「……追われてたって言ったな」
「……うん」
ユウトの声は弱い。それでも、さっきより芯があった。
生きる側に、意識が戻り始めている。
「誰に」
「……わからない。でも……人じゃなかったかも」
ユウは足を止めなかった。
人じゃない、という言葉を、この世界で額面通りに受け取るほど、彼は甘くない。
「装備は」
「……首の、後ろ……」
ユウは一瞬、歩調を落とした。
嫌な予感が、確信に変わる。
廃ビルの影に入り、慎重にユウトを下ろす。背後を確認し、銃を構えたまま距離を取る。
ユウトの首筋に、細い金属のラインが走っていた。古いが、意図的に埋め込まれたものだ。
「……チップか」
ユウトは、答えなかった。
知らない、というより、知らされていない顔だった。
GENESIS。
白い施設、赤い警告灯、管理と修正の名のもとに行われた再生計画。
人を“資源”として扱う思想。
ユウは、舌打ちを飲み込んだ。
「動くな」
手袋を外し、最低限のスキャンをかける。反応は、かすかだが生きている。完全な起動状態ではない。だが、放っておけば、いずれ誰かが気づく。
「……俺、壊れてる?」
「まだだ」
短く言い切った。
壊れている、と言わせるのは簡単だ。だが、それを許した瞬間、この世界は人を二度殺す。
ユウは思考を切り替えた。
今は感情ではなく、選択の段階だ。
チップを抜くには設備が足りない。下手に触れば、逆に信号を強める可能性がある。
つまり——動き続けるしかない。
「行くぞ」
「……どこに」
「安全な場所だ。今は、それだけでいい」
ユウトはそれ以上、聞かなかった。
背負われる感覚に、ほんの一瞬だけ、身を預けるような力が伝わってくる。
再び歩き出した直後、遠くで別の音がした。
レイダーのエンジン音とは違う。もっと規則的で、無駄がない。
ドローンだ。
ユウは即座に進路を切った。高低差のある瓦礫地帯に入り、熱源を分散させる。
追跡は、もう始まっている。
「……俺のせい、だよな」
ユウトの声が、背中から落ちてきた。
「違う」
即答だった。
理由を考えるより先に、言葉が出た。
「拾ったのは、俺だ」
それが事実だった。
未来を拾ったのは、ユウ自身だ。
世界は、選択を許さない。
だが、選んだ責任から逃げることも、また許さない。
夜が近づいていた。
空の色が、灰から深い群青へと沈んでいく。
ユウは歩き続ける。
追われる理由を背負いながら、拾われた未来とともに。
第二章は、まだ終わらない。
だが、この時点で一つだけ、はっきりしたことがあった。
もう、この世界は、彼らを見逃さない。




