21
夜半、宿の裏庭は静まり返っていた。
水桶を置き、ミオは息を整える。
癒しの仕事は終わったはずなのに、胸の奥が落ち着かない。
「……また、だ……」
ここ数日、同じ感覚が続いている。
誰かが、すぐ近くにいる。
触れられない距離で、じっと見守っている。
――気のせい。
そう言い聞かせてきた。
けれど今夜は、違った。
「……ミオ」
はっきりと、声がした。
風でも、思い込みでもない。
胸の内側に、まっすぐ届く声。
ミオは、息を止めた。
「……今の……」
震える指先で、胸に手を当てる。
癒しの力を流すときの、あの感覚――
命の“輪郭”をなぞる感触が、確かにあった。
「……いる……」
一歩、前に出る。
「……どこ……?」
返事はない。
だが、方向だけは分かる。
宿の塀の向こう。
灯りの届かない場所。
ミオは、そっと目を閉じた。
深く息を吸い、癒しの力を――外へ向ける。
治すためじゃない。
探すためでもない。
ただ、触れないまま、重ねる。
「……聞こえてるなら……」
小さく、しかしはっきりと言う。
「……無事で、いて……」
その瞬間。
「……ああ」
確かに、返事があった。
短い。
けれど、迷いのない声。
ミオの喉が、鳴る。
「……やっぱり……」
涙が、零れた。
「……生きてる……」
膝から、力が抜ける。
だが、倒れなかった。
――触れられない。
――姿も、見えない。
それでも、十分だった。
「……もう……
探しません……」
震える声で、続ける。
「……呼びません……
追いません……」
しばらく、沈黙。
そして。
「……ありがとう」
声は、もう返らない。
だが――近くにいる感覚は、消えていなかった。
ミオは、涙を拭い、立ち上がる。
「……大丈夫……」
自分に、言い聞かせる。
「……私は……
待てる……」
夜風が、髪を揺らす。
塀の向こうで、
何もない空間が、静かに揺れた。
――見ている。
――聞いている。
それだけで、
今は、十分だった。
ミオは、宿へ戻る。
歩幅は、少しだけ――
前より、しっかりしていた。




