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夜半、宿の裏庭は静まり返っていた。


水桶を置き、ミオは息を整える。

癒しの仕事は終わったはずなのに、胸の奥が落ち着かない。


「……また、だ……」


ここ数日、同じ感覚が続いている。

誰かが、すぐ近くにいる。

触れられない距離で、じっと見守っている。


――気のせい。

そう言い聞かせてきた。


けれど今夜は、違った。


「……ミオ」


はっきりと、声がした。


風でも、思い込みでもない。

胸の内側に、まっすぐ届く声。


ミオは、息を止めた。


「……今の……」


震える指先で、胸に手を当てる。

癒しの力を流すときの、あの感覚――

命の“輪郭”をなぞる感触が、確かにあった。


「……いる……」


一歩、前に出る。


「……どこ……?」


返事はない。

だが、方向だけは分かる。


宿の塀の向こう。

灯りの届かない場所。


ミオは、そっと目を閉じた。

深く息を吸い、癒しの力を――外へ向ける。


治すためじゃない。

探すためでもない。


ただ、触れないまま、重ねる。


「……聞こえてるなら……」


小さく、しかしはっきりと言う。


「……無事で、いて……」


その瞬間。


「……ああ」


確かに、返事があった。


短い。

けれど、迷いのない声。


ミオの喉が、鳴る。


「……やっぱり……」


涙が、零れた。


「……生きてる……」


膝から、力が抜ける。

だが、倒れなかった。


――触れられない。

――姿も、見えない。


それでも、十分だった。


「……もう……

 探しません……」


震える声で、続ける。


「……呼びません……

 追いません……」


しばらく、沈黙。


そして。


「……ありがとう」


声は、もう返らない。

だが――近くにいる感覚は、消えていなかった。


ミオは、涙を拭い、立ち上がる。


「……大丈夫……」


自分に、言い聞かせる。


「……私は……

 待てる……」


夜風が、髪を揺らす。


塀の向こうで、

何もない空間が、静かに揺れた。


――見ている。

――聞いている。


それだけで、

今は、十分だった。


ミオは、宿へ戻る。


歩幅は、少しだけ――

前より、しっかりしていた。


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