20
夜の境界線は、音が薄い。
森でも、街道でもない。
人の営みから、半歩外れた場所。
「……ここだ」
リィナは、足を止めた。
空気が、わずかに軽い。
裂け目の前兆――
だが、発生していない。
「……また、未発生……」
剣には、手をかけない。
今回は、斬る相手がいない。
――にもかかわらず。
胸の奥で、
確かに警鐘が鳴っている。
「……誰かが……
先に、来ている……」
⸻
同じ頃。
世界の縁、
一段、外側。
「……近いね」
カナデが、楽しそうに言った。
視線の先。
森の向こうに、
鎖の気配。
「……リィナだ」
俺は、即座に理解する。
《断界侵食――最小》
存在位相を、薄く。
「気づいてる?」
「……気づいてる」
だが――
見えてはいない。
彼女は、
“痕跡”を追っている。
「……仕事、続けるか」
「もちろん」
カナデが、笑う。
「会わないための仕事でしょ」
裂け目の“芽”が、
空間の裏で震える。
「……時間は」
「四十秒」
十分だ。
殴らない。
壊さない。
引き剥がす。
世界の裏に、
指を滑り込ませる。
「……っ」
存在が、
少し、削れる。
だが、耐える。
「……今」
カナデが、囁く。
俺は、
裂け目の“芽”を――
引き抜いた。
音もなく、
異常は消える。
⸻
その瞬間。
リィナの足元で、
空気が戻った。
「……今……」
剣を抜く。
だが、
そこには――何もない。
「……消えた……?」
いや。
最初から、なかったことにされた。
「……違う……」
リィナは、地面に膝をつく。
指先で、
空間をなぞる。
「……ここ……
触られた跡がある……」
殴られた痕跡ではない。
修復の残滓でもない。
「……“持ち上げて、
外した”……」
その感触に、
覚えがあった。
「……あなたは……」
名を、
心の中で呼ぶ。
「……ここに、
いた……」
⸻
世界の外。
俺は、
一歩、距離を取る。
「……近すぎたな」
「だね」
カナデが、肩をすくめる。
「でも――」
にやり、と笑う。
「バレなかった」
「……いや」
首を振る。
「……分かったはずだ」
「へぇ」
「彼女は……
“気づく側”だ」
沈黙。
「……それでも」
カナデが、言う。
「来なかった」
「……来れなかった」
それが、
正解だ。
⸻
リィナは、
ゆっくりと立ち上がる。
剣を、納める。
「……確信、しました」
独り言のように。
「……あなたは……
生きている」
だが。
「……そして……
会わない選択をしている」
空を、見上げる。
「……それが、
最善だと……
信じている……」
胸の奥が、
静かに疼く。
止める者としてではない。
執行官としてでもない。
一人の人間として。
「……なら……」
歩き出す。
「……私は……
追いすぎない」
それは、
見逃しではない。
尊重だった。
⸻
世界の外。
俺は、
彼女の背中が
見えなくなるまで、
そこに立っていた。
「……これでいい」
誰に言うでもなく、
呟く。
「……今は」
カナデが、
少しだけ真面目な声で言った。
「……ねえ」
「……なんだ」
「……いつか、
会う日は来ると思う?」
少し、考える。
「……来る」
「へぇ」
「……だが」
視線を、
世界の向こうへ。
「……それは、
今日じゃない」
裂け目は、
今日も開かなかった。
誰にも知られず、
誰にも感謝されず。
それでも。
世界は、確かに救われている。
そして、
止める者と、
記録されない者は――
ほんの一歩の距離で、
すれ違い続けていた。




