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報告書は、簡潔だった。
件名:北方廃都跡
事象:裂け目発生 ―― 未確認
被害:なし
修復対応:不要
「……未確認、ですか」
リィナは、指先で紙をなぞった。
誤字でも、欠落でもない。
正式な文言だ。
――発生しなかった。
「……あり得ない」
裂け目の前兆は、確かに観測されていた。
そのために、修復執行官が派遣されたはずだ。
「……現地執行官の状態は?」
「気絶していました」
部下の報告は、淡々としている。
「外傷は軽微。
精神負荷――やや高め」
「……理由は?」
「本人も、説明できないと」
リィナは、視線を落とす。
説明できない。
記録に残らない。
発生していないはずの事象。
「……似ている」
思わず、声が漏れた。
「……何か?」
「いえ」
首を振り、
報告書を重ねる。
――似ているのだ。
彼の件と。
世界が「死」と判断した直後から、
増え始めた小さな齟齬。
「未発生」
「観測不能」
「原因不明」
どれも、
“なかったこと”にされている。
「……彼は……」
口に出しかけて、
止める。
それは、
考えてはいけない名前だ。
――粛清は、完了している。
私は、
剣を振った。
世界は、
彼の死を記録した。
「……それでも」
胸の奥が、
微かに疼く。
「……あの人は……
いつも、
一歩、規定の外にいた」
思い出す。
鎖を、
“壊さなかった”時のこと。
拳で、
“斬らなかった”時のこと。
「……止める側が……」
私は、
彼を止めた。
だが――
世界を、止められたか?
「……リィナ執行官」
部下が、声をかける。
「次の配置ですが――」
「……保留で」
即答だった。
「……未発生事象の件、
私が直接、追います」
「……ですが、
修復対象は存在しないと――」
「だから、です」
顔を上げる。
「存在しないはずの事象が、
増えています」
部下が、言葉を失う。
「……何かを、
見落としている」
それが、
執行官としての直感だった。
報告書の束を閉じ、
窓の外を見る。
空は、晴れている。
裂け目の気配は、ない。
――だからこそ。
「……あなたは……
どこにいるんですか」
名を、
心の中で呼ぶ。
答えは、返らない。
だが――
不在そのものが、痕跡になっている。
「……もし……」
剣の柄に、
手を置く。
「……もし、生きているなら……」
言葉は、
そこで止めた。
それ以上は、
職務ではない。
だが。
報告書の一行が、
どうしても、頭から離れなかった。
事象:裂け目発生 ―― 未確認
それは、
世界が気づいていない異常。
そして――
私だけが、引っかかっている違和感。
リィナは、
静かに席を立った。
止める剣は、
すでに一度、振り下ろされている。
だが――
確かめる責任は、まだ終わっていない。




