16
夜明け前の街外れは、相変わらず静かだった。
人の気配はある。
だが――俺は、そこに“いない”。
観測者に導かれ、
俺は街の縁に立っていた。
「……ここでいい」
そう思った瞬間、
彼女が見えた。
ミオ。
簡素な外套に身を包み、
宿屋の裏口で、水を汲んでいる。
動きが、遅い。
肩が、落ちている。
「……無理、してるな」
声は、届かない。
それでも、
足は自然と前へ出た。
一歩。
また一歩。
――近い。
ほんの数歩で、
触れられる距離。
「……ミオ」
名を呼ぶ。
聞こえない。
当然だ。
俺は、
“世界にいない”。
それでも。
ミオは、
不意に立ち止まった。
水桶を置き、
胸に手を当てる。
「……?」
眉を寄せ、
周囲を見回す。
「……今……」
小さく、呟く。
「……呼ばれた、気が……」
胸の奥が、
僅かに軋む。
感情は、薄い。
だが――
完全にゼロではない。
「……気のせい、ですよね……」
ミオは、自分に言い聞かせるように、
そう呟いた。
その表情は、
“待つ人”のものだった。
「……生きてるなら……」
唇が、震える。
「……一言くらい……」
――言えない。
それが、
俺の選択だ。
「……もう……」
ミオは、
水桶を持ち上げる。
だが、
ふらついた。
「……っ」
反射的に、
手を伸ばす。
――掴めない。
指先が、
空をすり抜ける。
ミオは、
転ばなかった。
だが、その拍子に――
首元の護符が、揺れた。
あれは……
俺が、最初に拾った布切れで、
彼女が勝手に作ったもの。
「……まだ、持ってるのか……」
胸の奥に、
遅れて痛みが来る。
観測者の声が、
背後から響いた。
「……近づきすぎです」
「……分かってる」
「彼女は、
あなたを“失った側”です」
「……ああ」
「触れれば、
世界が、矛盾を検知します」
ミオが、
ふと、こちらを見た。
――目が合う。
……いや。
合っていない。
俺を、
見ていない。
それでも。
「……ありがとう」
彼女は、
何もない空間に向かって、
そう言った。
「……生きててくれたら……」
言葉が、
続かない。
その一言で、
十分だった。
「……行こう」
俺は、
一歩、下がる。
距離を、取る。
「……また、来ますか」
観測者が、問う。
「……来る」
即答だった。
「……触れられなくても……」
視線を、逸らす。
「……見ていたい」
それは、
弱さだった。
だが――
守るための弱さだ。
ミオは、
再び歩き出す。
朝の光が、
彼女の背中を照らす。
「……元気で」
声にならない言葉を、
胸の奥で呟く。
俺は、
もう戻らない。
だが――
置いていくわけでもない。
触れられない距離。
それが、
今の俺と彼女の――
正確な距離だった。




