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名家である伊澄家は生い茂る林を抜けた先に広がっている。土地が広いため周りには伊澄家が管理するもの以外の家屋はない。戸にぶら下がっている呼び鈴を鳴らすと、微かな足音が聞こえてきた。
手のひらに汗をにじまさせ、緊張のあまりごくりと唾を飲み込む。
戸が開いた瞬間、私は勢いよく頭を下げた。
「お初にお目にかかります、坂戸家から参りました長女の和香です。本日からよろ」
「顔をあげてください。私は緋瑠人さんの使用人です」
柔らかなその声が頭上から聞こえて私は恐る恐る顔を上げた。その声質から相違なく眼鏡をかけた優しげな顔をした男が立っていた。
「田沼と申します。本日からよろしくお願いします、和香様」
自身の名前に「様」がついたことなど今までほとんどなくどこかむず痒い感覚になりながらも再度頭を下げた。そうか、これだけの名家だ。使用人がいてもおかしくない。
こんなに大きな家を1人残された緋瑠人さんが全部管理できるわけがないのだ。
私たち以外に人がいるという事実に安堵の息を吐く。
「さ、中へ」
「ありがとうございます」
戸の中に入ると妙に背筋が伸びる。私、本当に伊澄家に嫁ぐのね。まあ、あやかしから旦那様を守るためという立派な大義名分があるのだけれど。
田沼さんの少し後ろを控えめに歩いていると、田沼さんは私の方を少し気にしながら困ったように笑う。
「緊張されておられますか、和香様」
「ま、まあ、文書ではやりとりしておりましたけど、緋瑠人さんとは初対面ですし」
「そうですよね。顔合わせもせずいきなり嫁にだなんて、緋瑠人さんも無茶を言う」
「そんなことは、」
あるんだけども。
不満などを口に出せるわけもなく「ないです」と続く言葉は緊張のあまり掠れた。
「田沼さんはいつから緋瑠人さんの使用人に?」
「緋瑠人さんが生まれてからすぐです」
ということは、惨殺事件の時も知っているということだろうか。少しの沈黙の間そんなことを考えながら田沼さんの背中を見つめる。と、
「あの時、私は外出しておりまして」
「あの時って…」
「緋瑠人さん以外の伊澄家の血をひくものが、全員惨殺された時、です」
「っ」
田沼さんの足が止まる。
「ここにいた使用人たちも一緒に殺されましたが、私は運良く生き残りました」
振り返ったその瞳が細まる。やはり私は嫁ぐ先を絶対に間違えた。帰りたい、今すぐ帰って父や妹と何も考えず修行して、バカみたいな会話したい。
「まだ犯人は捕まってないんですよね」
つまり、私は伊澄家の人間になるわけで、まだ誰かが伊澄家を狙っているとしたら。
そして、相手があやかしだとしたら。
腰にさしている鬼怪刀をぎゅっと握りしめると、田沼さんの小さく笑う声が聞こえた。
「そんなに身構えないでください。大丈夫です、あれ以降なにもありませんから」
「そうですか…」
「それに和香様はあやかし狩りの名人だと伺っております。あやかしを寄せ付けやすい緋瑠人さんもこれで少しは安心して伊澄家の当主として役割を果たせるわけです」
「やはり、私は用心棒…」
「いえ、違いますよ」
「え?」
「きいていませんか?緋瑠人さんは和香様を」
田沼さんが言葉を続ける前に響いた何かが地面に落ちる音。私同様田沼さんも驚いたように瞳を開く。
そして田沼さんは「またか」と小さな声で呟いた。
「和香様、行きましょう」
「え?」
田沼さんが早足で長い廊下を歩き始める。「またか」ってさっき言っていたけど、どういう意味だろう。
首を傾げながらも田沼さんの背中を追いかける。
そしてしばらくして田沼さんはある戸の前で足を止めた。その瞬間に気づく、『いる』と。
身を屈めた田沼さんと顔を見合わせる。
「私が行きます」
と、勢いよく戸を開く。洋室のようなつくりの部屋の中には紙が散らばっている。刀の柄を握りしめたままあたりを見渡した。
外が見える小さな窓が割れており、そしてそのすぐ側には男が1人倒れていた。
おそらく地面に落ちているこの紙たちは男が抱えていたものだろう。
「緋瑠人さん!」
田沼さんが私の後ろから倒れている男の方に駆け寄った。緋瑠人さん、この人が。確かに香織が言っていたように端正な顔をしている。
何度か体をゆすられ、苦しそうに顔を顰めた後瞳をゆっくりとあけた。
その瞬間である。入った瞬間に一度消えていたある存在を感じる。
ーーーあやかしだ。
刀を抜き、田沼さんと緋瑠人さんに背を向ける。
視界の先には、本棚。無造作に置かれている本の隙間から黒い物体が見えた。真っ黒なそれは身をゆらゆらと揺らしている。
あやかしを寄せ付けやすいとは聞いていたけれど、来て早々こんなことになるなんて。
黒い物体は何かの意思を宿しているかのように私たちの方に向かってこようとする。
「ひっ!」
と、声を出したのは私の後ろにいる緋瑠人さんである。
「田沼さん、いつもはどうやって?」
「離れに結界を張っている小屋があるのでそこに避難しています」
「なるほど」
寄ってきた黒いあやかし。おそらく危害を加えようとか、そんなものではないのは確かである。しかし、今後人間と契約を結んだり、あやかし自身の意志で手に負えないほどの脅威になり得ることもある。
「ごめんね」と心の中で謝りながら、刀の刃の先を下に向けてそのまま突き刺した。
刃の先に突き刺さり、地面にはじけた黒い物体はそのまま消える。
黒く濁った血飛沫のような跡を残していた。
刀をしまったあと、私は振り返って田沼さんの腕に支えられた緋瑠人さんの前に屈んだ。
「お初にお目にかかります、坂戸家からまいりました和香です。本日からよろしくお願いします」
「…来て早々、みっともないところみせてしまった」
「いえ」
なんて言ってはみたものの自分より幾分か上の歳の男が「ひっ!」と怯えた声を出していたのは確かに若干ひいた。口が裂けても言えないけど。
「何か危害を加えられましたか」
そう問うと、緋瑠人さんはバツが悪そうに伏し目がちに小さな声を放つ。
「大丈夫…」
「緋瑠人さんは、あやかしに怯えて時に倒れてしまうことがあります」
「田沼、それは言うな」
「かっこ悪いだろう」と手のひらを払いながら立ち上がる緋瑠人さん。田沼さんは苦笑いを浮かべている。
あれしきのあやかしで倒れてしまうなんて、この先が思いやられるんだけど。
思わず小さなため息がもれた。
「和香さん、こんな臆病者だけど、どうぞよろしく」
手を差し出される。自分のことを「憶病者」と言っておきながらこんなに笑顔の人初めてみた。一種の開き直りだろうか。
「よろしくお願いします」と手を握れば、手の甲も反対の手で包まれて軽く上下に揺れた。
「いやあ、本当に助かりました、あんな一瞬で狩ってしまうなんてさすがあやかし狩りの家系に生まれた子ですね」
「い、いえ」
「こんなに華奢なのに強いなんてますます」
「緋瑠人さん」
「なんだよ田沼」
「和香様が困っておられます」
田沼さんの言葉に緋瑠人さんは我に返ったかのようにぱっと手を離す。
「あ、すみません、つい」
照れたように笑った緋瑠人さん。表情がコロコロと変わる方だ。なんだか面白い。
「大丈夫です」と、微かに微笑むと緋瑠人さんは益々顔をあからめた。父からこの人は私に惚れている云々を聞かされていたがまさか本当なのだろうか。
だとしたらどこで私に会ったのだろう。
もしかしたら私が忘れているだけ?
「わたしはここの片付けをしておりますので、お二人は居間の方にお願いします。色々お話ししたいこともあるでしょうから」
田沼さんはこの静かな探りの空気を察してかそう言った。緋瑠人さんは倒れた衝撃で少し乱れてしまった着物を軽く正して私の方に手を差し出す。
「そうしよう、和香さん」
「はい」と返事はしたもののその手に甘えることはなかった。




