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独房の目覚め

最初に感じたのは、鼻をつく消毒液と古びた木の匂いだった。

目を開けると、薄暗い天井と、鉄格子が見えた。視界の端には、小窓から差し込む灰色の光が、かすかに埃を浮かび上がらせている。


頭が重い。昨日まで、確か俺は……。

思い出そうとした瞬間、鈍い衝撃音が脳裏に蘇った。横断歩道、信号無視のトラック、そして真っ白な光。

あれが最後だったはずだ。


しかし、どういうわけか俺はここにいる。ベッドの代わりに木製の寝台、壁はひび割れた白塗り。これは……どう見ても、刑務所だ。


立ち上がろうとすると、足首に冷たい感触が走った。鉄製の足枷。短い鎖が寝台の脚に繋がれている。

胸がざわつく。いや、落ち着け。まだ状況はわからない。ここは日本なのか、それとも……。


その時、分厚い鉄扉の覗き窓がカタリと開いた。

鳴海正武なるみ まさたけ——起床時間だ」

低い声。見知らぬ名を呼ばれて、反射的に「違う」と言いかけて口を噤む。俺の中の何かが、危険信号を鳴らしていた。


扉が開き、長身の男が立っていた。濃紺の制服、左腕に「MP」の腕章——米軍憲兵だ。

その後ろには、日本人らしき若い男。灰色の作業服を着て、無言でこちらを見ている。


「歩けるか?」

憲兵の短い問いに、うなずく。足枷の鎖を外され、俺は廊下に出た。

壁際に並ぶ鉄扉。薄暗い廊下を進む間、遠くから英語と日本語が交じったざわめきが聞こえてくる。

俺の記憶にある刑務所のイメージとは違う。ここは、どこか整然として、軍隊の匂いがする。


やがて、事務室のような部屋に通された。机の向こうに、日本人の中年男性が座っていた。黒縁眼鏡、端正な背広姿。

「私は日本側弁護団の清水忠勝。あなたの弁護を担当します」

淡々とした声で、眼鏡の奥の瞳がじっと俺を射抜く。

「ここは、巣鴨プリズン。あなたは極東国際軍事裁判——いわゆる東京裁判のA級戦犯として起訴されています」


……A級戦犯。

その単語が落ちてくるまでに、数秒かかった。


俺は昭和史オタクだ。A級が何を意味するかは、現代人の中でもかなり詳しい方だ。

平和に対する罪——侵略戦争の計画・遂行・共同謀議。その被告席に立たされたのは、東條英機や木戸幸一といった中枢人物たち。

だが俺は鳴海正武なんて知らない。歴史のどの資料にも出てこない名前だ。


「……俺は無実だ」

そう言うと、清水は微かに口角を上げた。

「そう言う人は多い。しかし、あなたの場合は可能性があります。——問題は、どう証明するかです」


机の上に、分厚い書類の束が置かれた。上にはタイプ印字された英語の文書——起訴状だ。

清水が要約する。「あなたは戦時総動員院の企画局長として、戦争継続のための資源配分計画を立案した。これが“共同謀議”の証拠とされています」


俺の中で、ひとつの記憶が引っかかった。戦時総動員院——史実では存在しない。いや、似た組織はあるが、この名称は……。

つまり、俺が転生したのは完全な架空の人物だが、その役割は史実の官僚に似ている、ということだ。


清水はさらに続ける。「米軍検察は、あなたが作成した“構想書”なる文書を核心証拠と見ています。現物は米側が保管。あなたの権限は閣議レベルの決定に直結すると主張しています」


俺は息を呑んだ。

もしその文書が改ざんされているとしたら——。現代の知識で言えば、一次資料の原本が全てだ。そこを突ける可能性はある。

だが原本を手にするには、連合国の倉庫をこじ開けるようなものだ。


清水は資料を閉じた。「判事たちは勝者側も含めた十一カ国。検察側は米・英・ソが主導。あなたの未来は、法廷と、その外での戦いにかかっています」


清水との面会が終わると、再び憲兵が俺を連れ出した。

廊下の先、分厚い鉄扉が開き、広い共用スペースのような部屋が現れる。長机が並び、数人の男たちが将棋を指したり新聞を読んだりしていた。

全員、独特の威圧感を持っている。軍服姿こそないが、立ち居振る舞いに染み付いたものは消えないらしい。


俺に気づいた一人が、鋭い視線を寄こした。

「新入りか。……鳴海、だな」

低く押し殺した声。年配だが、背筋は真っ直ぐ、目は鷹のように鋭い。周囲の数人もこちらを値踏みするように見ている。

噂は早い。この場所では、誰が何をしたかより、“裁判でどう動くか”の方が価値を持つ。

俺は深く会釈だけして、余計な言葉は避けた。


机の端に腰掛けていた別の男が、口元だけで笑った。

「穏健派なら歓迎する。強硬派は、死刑を覚悟してでも勝者に楯突く。——どっちを選ぶかは、お前次第だ」

さりげなく踏み絵を差し出してくるあたり、ここの人間関係はすでに地雷原だと知れる。


憲兵が俺を促す。「戻るぞ」

短い滞在だったが、十分だ。ここでは一言が命取りになる。


独房に戻る途中、廊下の角で別の人物とすれ違った。日本人、二十代半ば。背は高くないが、がっしりとした体格。灰色の作業服に胸章——看守だ。

彼は俺を見ると軽く顎を引いた。「鳴海さん、ですね」

声は低いが、どこか人間味がある。

「柿崎です。困ったことがあれば——規則の範囲で、ですけど——言ってください」

その“規則の範囲で”という一言に、妙な含みを感じた。


扉が閉まり、再び薄暗い独房に一人。

俺は寝台に腰を下ろし、目を閉じた。


A級戦犯——東京裁判——巣鴨プリズン。

史実の知識が、頭の中で組み上がっていく。

この裁判は勝者が作った法で敗者を裁く。遡及適用の原則違反だとか、証拠採用の基準が緩いとか、歴史的にも議論は多い。

だがそれでも、無罪を勝ち取った被告がゼロではないことも知っている。判事の心証を揺らし、証拠を覆せば、道はある。


米軍が保管する“構想書”——あれが鍵だ。原本を出させ、改ざんを暴く。

それには、法廷内だけでなく、拘置所内の人脈、外部の記者、時には敵すら利用しなければならない。

証拠、証言、そして世論。この三つを同時に動かす必要がある。


呼吸を整え、心に言い聞かせる。

——これはゲームじゃない。失敗すれば死刑。成功しても、何もかも元通りにはならない。

だが、それでも俺は勝つ。勝って、この時代の“真実”を書き直す。


翌朝、柿崎が独房の扉を開けた。

「弁護人と面会です」

短く告げ、俺を廊下へと促す。


案内された面会室には、清水がすでに座っていた。机の上には分厚い資料と裁判日程の紙束。

「今日は、あなたが立つ法廷の構造を説明します」

清水は眼鏡の位置を直し、静かに言葉を継ぐ。


「極東国際軍事裁判——東京裁判は、判事が十一か国から選ばれています。

アメリカ、イギリス、ソ連(ソビエト連邦)、フランス、オランダ、カナダ、オーストラリア、インド、フィリピン、ニュージーランド、そして中華民国です」

一国一名の判事が出席し、評決は多数決で行われる。判事は法律家だけでなく、軍人や外交官経験者も混じる。


「検察側はアメリカ、イギリス、ソ連が主導。そこに各国の補佐官が加わります」

清水は一枚の紙を俺に差し出す。

米国首席検察官の下には、ハロルド・ベネット——米軍大佐で国際法の専門家。名前に見覚えがある。前世の知識で言えば、彼は手堅く論理を組み立てるタイプだ。


「被告の数は二十八名。その中で、あなたは“戦争継続の計画立案に関与した”とされる中枢組です」

清水は淡々と言うが、その意味は重い。死刑判決の可能性が最も高いグループだ。


説明が一段落すると、清水は声を落とした。

「あなたの案件は特殊です。証拠の“構想書”が全て。これを崩せば、有罪の根拠は大きく揺らぐ」

俺はうなずいた。昨日からの考えは変わらない——原本を引きずり出し、内容を覆す。それが唯一の道だ。


その時、扉が開き、通訳が入ってきた。

日系二世のロバート・カトウ。端正な軍服姿で、動きに無駄がない。

「これから検察補佐官との面談があります。言葉は私が通します」

低い声と鋭い目つき——情に流されないタイプだが、正義感はありそうだ。


やがて現れたのが、ハロルド・ベネットだった。背が高く、ブロンドに近い短髪。表情は硬く、冷徹な目が俺を測る。

「鳴海、あなたの名前は記録の上では戦争継続派の中枢にある。だが私は、あなたの口から直接、何を考えていたかを聞きたい」

通訳を介しても、圧は十分に伝わる。これは情報収集という名の“試し”だ。


俺は慎重に答えた。

「私の計画は、戦争を縮小し、国民生活を立て直すためのものだった」

ベネットの眉がわずかに動く。だが表情は崩さない。

「ならば、その証拠を出すことだ。——あなたの命は、それ次第だ」

そう言い残し、彼は背を向けた。


扉が閉まったあと、清水が小声で言った。

「彼は冷酷に見えるが、証拠には正直です。逆に言えば、感情論では絶対に動かない」

俺は心の中で、戦略の柱を三つに定めた。

一、原本の入手。

二、信頼できる証人の確保。

三、国際世論での“個別責任”の定着。


それらを同時に進めなければ、判事十一か国の票は動かない——そう悟った。


面会室を出ると、柿崎が無言で先を歩く。廊下を進む途中、鉄格子越しに数人の被告たちと目が合った。視線は冷たくもあり、好奇心も含んでいる。俺がどちら側に転ぶのか、値踏みしているのだろう。


昼の配膳のために小さな食堂に通されると、壁際の席に二人の男が座っていた。どちらも年配で、軍隊の匂いが抜けない。

一人が煙草を指で転がしながら話しかけてくる。

「鳴海、あんたの計画書ってやつ、新聞社が面白おかしく書き立ててたぞ」

探りを入れるような声だ。俺は軽く肩をすくめ、「そうですか」とだけ返す。余計な言葉は命取りだ。


配膳を終えた柿崎が小声で言った。

「外との接触は難しいですが、不可能じゃありません。……あなたの態度次第で、協力できることもある」

彼の視線には、規律を守る者の冷静さと、ほんの僅かな好奇心が入り混じっていた。


午後、独房に戻ると、扉の隙間から一枚の紙が滑り込んできた。

英字新聞の切り抜きだった。見出しは〈Tokyo Tribunal Continues Heated Debates〉——極東国際軍事裁判、審理続行。記事の末尾には特派員アグネス・クラークの名前があった。

現代で読んだことのある名前だ。東京裁判を辛辣に批評し、国際世論に影響を与えた数少ない記者の一人。


俺は記事を読みながら、心の奥で何かが点火するのを感じた。

裁判は法廷だけで決まるわけじゃない。外の世界に響く声を持つ者——その存在が、勝敗を左右する。


狭い独房の中で、わずかな光が差す小窓を見上げた。

この曇り空の向こうに、まだ動かせる何かがある。

そう思えた瞬間、鉄とコンクリートに囲まれた空間が、少しだけ広く感じられた。

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