第73話 「新しい朝」
屋敷に戻るころには、夜も深まっていた。
扉を開けると迎えてくれたのは、白いエプロン姿のヒカリだった。
「おかえりなさい、アディスさん、アイラさん。今日はずいぶん遅かったですね。それに……そちらの方は?」
ヒカリの視線が、後ろに立つティタニアとラウラに向く。
桃色の髪を揺らしながら、ティタニアは軽く微笑んだ。
「こんばんは。少しの間、お世話になるわ」
「え、えっと……」
ヒカリが目を瞬かせる。どこか気圧されたように、けれども目を離せない様子だった。
「……姫様。控えめにお願いします」
ラウラが小声でたしなめる。
ティタニアは肩をすくめて笑った。
「ごめんなさいね。驚かせたわよね。あとラウラ、もう姫様なんて呼ばないで」
「は、はい……ですが……」
ラウラはどこか釈然としない様子で答える。
そのやりとりに、ヒカリが首をかしげる。
「え、ひ、姫様……?」
「気にしなくていい。ちょっと複雑な事情があるんだ。それよりすまないけど、二人が滞在できる部屋の用意をお願いできないか?」
「えっと、お部屋の準備、すぐにしますね! 居間で待っててください」
ぱたぱたと駆けていく足音が響く。
◆◇◆━◆◇◆━◆◇◆━◆◇◆
翌朝。
居間に向かうと、先に起きていたアイラとヒカリの姿が見える。二人とも、目の前の光景に固まっていた。
「おはよう、アルヴィオ」
振り返ったティタニアが、にっこりと笑う。
昨日までの長い髪は、肩口でばっさりと切りそろえられていた。
ティタニアが、指で髪を跳ねると桃色の髪先が光を受けてきらめく。
「……どうしたんだそれ」
「どうしたもこうしたもないわ。完璧に変装するなら、これくらいしないと。ね、ラウラ?」
「ひ、ティタニア様……そのお姿、やはりもったいないです……」
ラウラが半泣きで言う。ティタニアはケロッとした顔で笑った。
「大丈夫よ。髪なんてまた伸びるもの。気分転換にもなったわ」
アイラはぽつりと漏らした。
「すごく……似合ってます。でも、なんだか別の人みたいです……」
「でしょ? これでどこに出てもバレないわ」
ティタニアは胸を張る。
「本当によかったのですか……?」
ラウラの声は揺れている。
「大丈夫よ、ラウラ。姫としてのわたしは、もういないもの」
ティタニアの瞳は澄んでいた。
そこにあるのは、後悔ではなく、前を向く決意に見えた。
「さ、行きましょう。取引所が待っているわ」
◆◇◆━◆◇◆━◆◇◆━◆◇◆
リアディス取引所は、朝から賑わっていた。
取引所の受付には、いつものようにリアナがいた。
整った仕草で書類をまとめていたが、俺たちの姿を見て小さく首をかしげる。
「おはようございます。今日は三人ですか?」
「ああ。新しい取引魔法士を追加したいと思ってる」
「新しい方を? それはまた突然ですね」
「事情があるんだ。手続きをお願いしたい」
「かしこまりました。それではアルカナプレートを確認しますね?」
「これで頼む」
俺は懐から、アルカナプレートを取り出した。
「問題ないですね。それでは、契約の間へどうぞ」
◆◇◆━◆◇◆━◆◇◆━◆◇◆
取引広場の地下。
かつてアイラと契約を結んだあの幻想的な空間が、静寂と共に広がっていた。
「……ここは?」
ティタニアが周囲を見回す。
リアナが穏やかに答える。
「取引所の地下にある契約の間です。トークンコアの魔力場の影響が強いため、契約を行うのに最も適した場所なんですよ」
「なるほどね。ずいぶんと厳かな場所だわ」
「それでは、契約者は右の陣に、魔法士は左へお願いします」
俺とティタニアは互いに視線を交わし、それぞれ所定の位置に立った。アイラは端に立って見守っている。
「緊張してるのか?」
「まさか。この手の儀式は慣れてるわ」
ティタニアが小さく笑い、リアナが書類を開く。
リアナが中央に立ち、厳かな口調で告げる。
「おふたりの名前、そして心を込めた誓いが、この儀式の核となります」
「それでは、アルヴィオ・アディス様、契約者としてご自身のアルカナプレートをご用意ください」
アイラの時と同様、アルカナプレートを台座に据える。魔術式が起動した振動が伝わる。
「さて、魔法士の方のお名前を伺ってもいいですか?」
ティタニアは一瞬だけ目を伏せた。
「……ティアナ・フェイノール」
「わかりました」
「アルヴィオ・アディス。ティアナ・フェイノール。ここに、相互の信頼と意思をもって、トークンコアの加護を受けし契約を結ぶことを誓いますか?」
「誓う」
「誓うわ」
「それでは、アルヴィオ・アディス、ティアナ・フェイノール、それぞれの血を、アルカナプレートにお示しください」
それぞれの血をアルカナプレートに落とす。
だが――
静寂。
リアナが眉を寄せる。
魔法陣の光は、沈黙したままだった。
「……おかしいですね。魔法陣が反応しません。お名前は、ティアナ・フェイノールさんで間違いないですか?」
その言葉に、ティタニアの唇がわずかに震えた。
「……真名を、名乗らなければならないのね」
その横顔は、どこか吹っ切れたようで――俺は何も言えなかった。
数秒の沈黙ののち、ティタニアは顔を上げる。
「ティタニア・アズーリア」
その瞬間、空気が震えた。
魔法陣が一気に輝きを取り戻し、光が足元からあふれ出す。
そして例のごとく、俺は、真っ白な空間に引き込まれた。




