Intermission 18 「クーデター追放王女の割とガチ目な脱出劇Ⅱ」
クーデター発生日、夜のアズラフィアは、騒然としていた。
宮殿では、轟音と悲鳴が響き、赤々と燃え上がる火柱が夜空を照らす。煙の向こうでは、雷鳴のような魔法の爆音がとどろいていた。
その闇の中を、三つの影が駆け抜けていた。
王族の装いを脱ぎ捨たティタニアは身軽だ。その背後を、従者のラウラが必死に追いかけ、さらにその後ろを、フードを深くかぶった女が無言で走る。
通りのあちこちで、炎の明かりがちらつく。倒れた兵士、崩れ落ちた家屋。夜風に混じる焦げた匂いが鼻を突いた。
「こっちです、姫様!」
ラウラが叫ぶ声をかき消すように、遠くで角笛が鳴り響く。追っ手の気配が近い。
ティタニアは立ち止まり、振り返りざまに両手をかざした。
「氷よ舞え、アイスミスト」
冷気と共に白い霧が通りを覆う。兵の視界が奪われ、怒号が混乱へと変わる。
だが、霧が膨れすぎて辺りの瓦礫までも凍りつかせた。魔力の密度が高すぎる。制御を誤ったティタニアの頬を、凍てつく風がかすめた。
「焦らないことね」
フードの女が小さく呟いた。
指先を軽く振ると、暴走しかけた霧が嘘のように収束していく。冷気が整い、霧が再び静かな幕へと変わった。
ティタニアは息を呑んだ。あの術式を、詠唱もなしに鎮めるなど――。
「……行くわよ」
女が短く告げ、先頭に立った。その口調には、王族に対する遠慮も畏れもない。ただ、自然に導く者の声だった。
三人は、曲がりくねった裏通りを抜け、人気のない厩舎に飛び込む。
馬の鳴き声が響く。女が扉を閉めると、外の喧騒が一気に遠のいた。
「この馬、使わせてもらうわ」
「盗むんですか!?」
ラウラが驚きの声を上げる。
「借りるだけよ」
女は手際よく馬具を整え、馬に手を触れた。魔力の光が走り、馬が一瞬だけ目を細める。
鎮静の魔法――緊張と恐怖を和らげる。
「これで言うことを聞くわ」
ティタニアは黙ってうなずき、鞍へと手をかけた。
だがその横で、ラウラは立ちすくんでいた。震える手で馬に触れ、顔を引きつらせている。
「ラウラ、早く!」
「ひ、姫様……わ、わたし……乗れません……!」
情けない声だった。
ラウラは貴族の出でも軍人でもない。宮廷で働いていたとはいえ、馬に乗る機会などほとんどなかったのだ。
ティタニアが一瞬焦りを見せるより早く、女が近づいた。
「なら、私の後ろに乗りなさい」
「えっ、で、でも……!」
「選んでる暇はないわ」
その声に、有無を言わせぬ力があった。ラウラは唇をかみ、恐る恐る頷く。
女は軽やかに馬にまたがり、手を差し出した。
「ほら、腰をしっかり掴んで」
ラウラはためらいがちにその手を取り、必死に背中にしがみつく。
「行くわよ」
「ええ――行きましょう」
ティタニアが手綱を握る。厩舎の扉が開け放たれ、二頭の馬が夜の街道へ飛び出した。
石畳を、蹄の音が響く。遠くで魔法弾の閃光が上がり、炎の粉が夜風に舞った。帝都の外壁を抜けたとき、ティタニアは思わず息をついた。背後で爆音が鳴り、空が赤黒く染まる。
女は振り返らない。ただ、馬の脚を軽くするように小声で詠唱し、空気が流れを変えた。馬の体がふっと軽くなる。まるで風に抱かれているようだ。
ティタニアはその技に目を見張る。ティタニアも魔法には多少の覚えがあった。だが、あれほど自然に魔力を流すことはできない。
この女は一体――。
やがて、帝都の灯が完全に遠ざかり、丘陵の向こうに静寂が戻った。風の音に混じって、遠くの野犬の遠吠えが響いた。
「少し休みましょう」
ティタニアの声に、ラウラがほっとしたように頷く。三人は、街道脇の小川のそばで馬を降りた。
ティタニアは焚き木を拾い集め、魔法で火を灯す。
その光に、女がふと目を細めた。
「……魔法の扱い、悪くないわね」
「帝国の王女ですもの。最低限は、ね」
ティタニアが少しだけ強がるように言うと、女は小さく微笑んだ。
「そう? 十分上手よ」
ラウラが火のそばに座り込み、膝を抱える。
「姫様……本当に、逃げ切れるのでしょうか」
その声には不安と疲労が滲んでいた。
ティタニアは焚き火を見つめながら答える。
「逃げ切るしかないわ。ここで立ち止まれば、すぐに捕まる」
沈黙が落ちた。夜風が草を揺らし、火の粉が舞う。
「それと」
ラウラが意を決したように、フードの女を見た。
「あなた……一体、何者なんですか?」
女は、しばし黙っていた。
焚き火の光がその横顔を照らす。赤い瞳が炎を映して、ゆらりと揺れた。
「名を、聞いてもいいかしら?」
ティタニアの声は落ち着いていたが、その奥には警戒があった。
女は指先で火の粉を払うと、ゆっくりとフードを下ろした。
月光が、緑の髪を照らした。
「クロエ、よろしくね」
その名を聞いた瞬間、ティタニアは息を呑んだ。
ティタニアの記憶には、同じ名があった。宮殿の禁書庫で見つけた名前。隠された歴史の一部。
――深緑の魔女。
――まさかね……
そう自分に言い聞かせて、ティタニアは問う。
「どうして助けてくれたの?」
ティタニアの問いに、クロエは焚き火を見つめたまま肩をすくめる。
「理由なんて、大したものじゃないわ。昔の約束を、果たしているだけ」
その言葉は、軽かった。
ティタニアはそれ以上追及できず、口を閉ざす。
クロエは話題を変えるように、火に小枝を投げ入れた。
「この先、どこへ向かうつもり?」
「東に行くつもり。グラニエ辺境伯の領地を目指すわ。アルドおじさまなら信用できる」
「そのあとは?」
「どうにかしてレオリアに亡命をするのが正攻法でしょうね。となれば、沿岸諸国連合、アルク王国に入って海路でレオリアに行くのが無難かしらね」
「悪くないわね」
クロエが短く答える。
焚き火がぱちりと弾けた。
ティタニアはその光を見つめたまま、指先を強く握った。
「……私は、生き延びる」
誰に聞かせるでもなく呟いた言葉は、夜の闇に吸い込まれていった。




