Intermission 15 「とある奴隷商の直感」
少し時間は遡り、開戦の知らせがリアディスに届く前。
朝のリアディス取引所は、すでに戦場のようだった。
魔法士たちの怒号、取引仲介人の走り回る足音、トークンコアの周囲には無数の光の筋が飛び交う。
――小麦。
先週からすでに三割高。市場参加者の多くが、その急騰を信じられずにいた。
「アンドレさん、すごい勢いですよ……!」
隣で帳簿を抱えた仲介人が、興奮と恐怖をないまぜにした声を上げた。
アンドレは、取引所の奥にある上級商人用の個室に腰を下ろしていた。光るスクリーンの数字を睨むその瞳は、まるで獲物を狙う猛禽のようだった。
「……ふむ」
短く唸る。その表情に迷いはない。
この数日、アンドレは奴隷の仕入れを完全に止め、資金を少しずつ小麦の先物に投じていた。最初は半信半疑だった。失った金を取り戻すため、打診的に買いを入れていた。
だが、相場は裏切らなかった。アズーリア帝国とレオリア王国の緊張、運河沿いの輸送滞り、南部の干ばつ。市場は恐怖に反応し、値は燃え上がるように上昇した。
最初の五百万ディム、次には倍の資金を入れる。気づけば帳簿は真っ黒に染まり、胸の奥が久しく忘れていた熱で満たされていた。
「へっ……悪くない」
低く笑う。
奴隷の相場よりも、ずっと素直だ。
血も涙もない、ただの数字の世界。だが、その数字の波が、いま自分を救おうとしている。
「アンドレさん、本当に……このままでいいんですか? もう十分に利益が――」
「黙れ」
その一言で仲介人は口を閉じた。
アンドレは、指輪のはまった手で机を叩く。
「今、降りる奴は負け犬だ。上がっている波に背を向ける商人がどこにいる?」
「で、ですが……借入金まで使えば、もし暴落したときは――」
「暴落? そんなもの、来るものか」
アンドレの口角が歪む。
「奴らは動いている。その資金がどこへ流れているか、俺にはわかる。小麦だ。――戦が始まる」
「戦……?」
仲介人が顔を引きつらせる。
「気にする必要はない」
アンドレは、そう言いながら帳簿を開く。
そこには、ありとあらゆる商人仲間、裏の金融屋、果ては灰牙の蛇に関わる資金ルートまでが書き込まれている。
「これで300万ディム。あと一社……いや、二社から引ける。すぐに発注しろ」
「ま、また小麦買いですか!? そ、それは――」
「聞こえなかったか?」
仲介人の顔が青ざめる。
だが、アンドレの目はすでに別のものを見ていた。
その瞳には、数字ではない「匂い」が映っていた。
――儲けの匂い。
それが、今、アンドレを突き動かしていた。
「わかりました」
そう言って、仲介人はトークンコアを周回する取引魔法士に指示を飛ばす。
その瞬間、扉が乱暴に開いた。
「報せです! アズーリア軍が――モスタール要塞を攻撃しました!」
場の空気が、一瞬で凍りつく。
仲介人が真っ青になり、言葉を失う。
アンドレだけが、静かに笑った。
「来たか」
低く呟き、ゆっくりと立ち上がる。
取引広場の喧騒が一気に爆発した。小麦の気配値が跳ね上がり、取引魔法士たちの詠唱が交錯する。
「……買いだ」
「な、何ですって!?」
「全てだ。借りられる分は全部突っ込め。残りの資金もだ。小麦を買えるだけ買え」
「アンドレさん、それは――!」
「聞こえなかったか?」
アンドレの声は低く、しかし確信に満ちていた。
長年、奴隷市場を這い回り、血の匂いと欲望の世界で生き延びてきた男の勘。
その勘が、今、全力で叫んでいた。
――これに乗れば、勝てる。
仲介人は震える手で書類を開く。借り入れの帳簿を記し、次々と発注を走らせた。
部屋の中が、トークンコアの反射で青く揺れる。
「上がれ……もっとだ」
アンドレの呟きは、熱狂の渦の中に溶けた。
数字が跳ねるたび、心臓が高鳴る。かつて感じたことのない昂揚。失敗の痛みも、恐怖も、今はもうどこにもなかった。
――賭ける。すべてを。
奴隷商アンドレの全財産が、その瞬間、小麦相場に飲み込まれていった。
読んでいただいてありがとうございます。
様々な視点で情勢が動いていく様子を読んでいただけるように、第8章では変則的に「Intermission」が挟まる形になります。
楽しんでいただけると幸いです。




