Intermission 13 「セリナの現場哲学」
夕方、リアディス経済新聞の事務所は静かだった。
窓の外では、夕暮れの光がゆっくりと街を沈めていく。
ダリル・フェインは、机に向かって今日の取材記録を整理していた。
昼間のエリーナ・ルミナス少将への取材は、思いのほか長引いた。軍の裏事情を聞き出すのは、神経を使う。
ちょうど一息ついたところで、ドアが勢いよく開いた。
「いたいた! ダリル、聞いた? 北運河の倉庫街で、騒ぎがあったらしいの!」
息を弾ませた声が響く。
セリナ・クロフォード――リアディス経済新聞のベテラン記者であり、ダリルの上司。無鉄砲で行動的、だがその嗅覚だけは異常な鋭さがある。
「セリナさん、また突発案件ですか? せめて――」
「のんびりしてたら、現場が消えるわよ!」
セリナは机に両手をついて、勢いよく身を乗り出す。
「しかもね、場所がセイラン女史が最後に目撃された区域よ。これは、アディスさん絡みで間違いないわ」
その一言で、ダリルの手が止まった。
「……まさか」
こういう時のセリナの目、それは、獲物の香りを嗅ぎつけた獣の目だ。
「……わかりましたよ。行けばいいんですね」
ダリルは、観念してペンを置く。
そして次の瞬間には、セリナに腕を掴まれていた。
「ぐぇっ、ちょっ、肩が抜けますっ!」
「急いで!」
事務所のドアが閉まる音が、夕暮れの街に吸い込まれていった。
◆◇◆━◆◇◆━◆◇◆━◆◇◆
北運河のあたりは、夜になると人気が途絶える。倉庫ばかりが並ぶその区域は、昼間でさえ薄暗く、夜はまるで別世界のように沈む。
「ちょっと、早いですよセリナさん!」
「あなたが遅いのよ!」
セリナは早足で路地を抜け、運河沿いの石畳を進んだ。
「……やっぱり来るんじゃなかった」
ダリルは、ぼやきながらついてくる。
「そう言いながら、ちゃんとついてくるのよね。やっぱり記者魂ってやつ?」
「ただの巻き込まれ体質です。僕はデスクワーク担当でいたいんですけど」
苦笑するダリルの耳に、遠くで鉄扉が軋む音が届いた。
風の流れが変わる。かすかに焦げた臭いが鼻を突いた。
「……何か、燃えた匂い? ということは…やっぱりここね」
「本当に近づく気ですか?」
「当然でしょ。記事は現場から生まれるのよ」
軽い口調のまま、セリナは足音を殺して進み始めた。
ダリルも観念して後に続く。
倉庫街の一角、崩れた壁の陰に人影が見えた。
常夏のリアディスには似つかわしくない黒い外套。
それは兵士でも警備でもない。動きは異様に整然としていた。
五、六人ほどの集団が、地面に撒かれた何かを処理している。
バケツを傾け、液体を撒く音。
そして、風に乗って刺激臭が漂った。
「うっ……なんですか、この臭い……!」
ダリルが鼻を押さえる。
セリナの顔が険しくなる。
「……この匂い、知ってる」
「え?」
「血液を分解して魔素に変える薬品よ。昔、暗殺で使われてたって聞いたことがあるわ。今は、条約で使用も製造も禁止されている」
ぞくりとした寒気が背筋を走る。
倉庫の前には、人型の輪郭を残した黒い染み。
そこへ、男の一人が薬品を注ぐと、淡い蒼光とともに跡形もなく消えていく。
「……後始末、ってやつですか」
「そう――ヤツらにとっては、見られたらまずい現場だわ」
その言葉とほぼ同時に、作業員の一人が顔を上げた。
無機質な視線が、こちらを向いた。
「……まずいっ!」
セリナがダリルの腕を掴む。
「バレた、走るわよ!」
次の瞬間、霧の中を閃光が走った。
魔法ではない。信号弾――周囲に合図を送るものだ。
反射的に身を翻したダリルの背後で、靴の音が鳴り響く。
倉庫と倉庫の間を抜け、木箱を蹴り倒しながら狭い路地を駆ける。
「セリナさんっ、どこへ!?」
「こっち! 運河沿いなら撒ける!」
息を切らせながら、二人は濡れた石畳を踏みしめた。
ようやく橋の下の物陰に身を潜める。
追っ手の気配は、もう遠い。
だが、風が運んでくる薬品の匂いは、まだ鼻に残っていた。
「……っ、死ぬかと思いました……」
ダリルは肩で息をしながら、壁にもたれかかる。
セリナは少し離れた場所で、髪を整えながら夜空を見上げた。
「見たわね、ダリル。誰かが、証拠を消してる」
「でも……誰が? 軍? それとも……どこかの商会?」
「わからない。ただ、あの装備。普通の処理班じゃないわ。闇側の仕事人よ」
セリナの言葉に、ダリルは思わず唾を飲み込んだ。
胸の鼓動がまだ速い。
「……つまり、アディスさんたちが戦ってたのは――」
「そう。灰牙の蛇か、あるいはその下部組織。どっちにしても、一般人が近づいちゃいけない領域」
セリナは冷ややかに笑い、懐からメモを取り出した。
「いずれ記事にしましょう」
「命懸けのネタですよ、それ……!」
「記者ってのは、危険手当が記事料に含まれてるの」
軽口を叩きながらも、セリナの目は笑っていなかった。




