第57話 「ケモ耳の影」
~憲章暦997年3月28日(光の日)~
休日の朝。
リアディスの空は澄み渡り、昨夜までの騒がしさが嘘のような穏やかな空気が流れていた。
「アルさん、今日はわたし庭の手入れをしておきたいんです。最近は慌ただしかったですし……」
朝食を終えたあと、アイラがそう言いながらプラチナブロンズの髪をひとまとめにして、庭に出る準備をしている。
「そうか。なら俺とヒカリで買い出しに行ってくる」
「はい、お願いします。あっ、卵と牛乳も忘れないでくださいね」
念押しに苦笑しつつ、俺とヒカリは街へ出た。
リアディスの大通りは、朝から賑わっていた。露店の呼び込みの声、運河を渡る荷船の軋む音、商人たちの取引を急ぐ足音。魔獣事件で一時は緊張が走った街も、表面上は普段の生活を取り戻しているように見えた。
「アディスさん、すごい人ですね」
ヒカリが瞳をきらきらさせながら通りを見回す。
「ああ。市場は休む暇がない。どれだけ混乱があっても、人は食べるし、物は必要だ」
最初に立ち寄ったのは日用品の店だった。石鹸や油、保存食をまとめて買い、アルカナプレートをかざして支払いを済ませる。シャリーンという音とともに、光の粒が弾けて消える。
「おう、旦那。最近は小麦も野菜も値が張ってきてるから気をつけな」
会計をしてくれた商人が、さもありなんといった顔で肩をすくめた。
「アズーリア帝国との緊張が続けば、物流が滞る。そうなりゃ、真っ先に値が跳ね上がるのは食料さ」
聞き飽きた話ではあるが、市井の声からは切実さがにじんでいた。俺は軽く頷き、ヒカリを連れて次の店へ向かう。
卵、牛乳、干し肉、香草――必要なものを一つずつ袋に詰めていく。ヒカリは買い物のたびに「これってどうやって料理するんですか?」と興味津々に尋ねてきて、その様子に店主たちも思わず笑顔を見せていた。
だが、通りを歩く人々の話題は明るいものばかりではなかった。
「帝国がまた兵を増やしてるらしいぞ」
「本当に戦になるのかね……」
耳に入る噂は物騒なものばかりだ。市場の熱気の裏に、見えない不安が渦巻いているのを感じた。
買い物袋を手に下げ、帰り道の石畳を歩いていたときだった。
ふと、視界の端を青い影が横切った。
角を曲がるその刹那――見覚えのある、青いケモ耳。
「……イオナ?」
思わず口から名前が漏れる。
「え?」
隣のヒカリが振り向いた時には、もうその姿は角の向こうに消えていた。
俺は買い物袋を握り直し、足を速める。
「アディスさん!? ちょ、ちょっと待ってください!」
呼び止める声を背に、俺は角を曲がった。だが、そこには人通りの多い通りと、分かれ道がいくつも広がっているだけ。
青い耳の姿はどこにもない。
「……見失ったか」
立ち尽くしていると、遅れてヒカリが駆け寄ってきた。頬を少し赤らめ、息を弾ませている。
「アディスさん、急にどうしたんですか?」
「……いや、知ってる奴を見かけた気がしたんだが」
言いながら、ようやく周囲を見回す。
石畳は割れ、壁は落書きに汚れ、異臭が漂っている。気づけば治安の悪い裏路地に足を踏み入れていた。
「……しまったな」
薄暗い通りに冷たい風が吹き込む。嫌な予感が背筋を撫でた。
その時だった。
「おい、こんな所に客人とは珍しいな」
路地の奥から、にやついた顔の男たちが三人現れた。腰にナイフを差し、肩で風を切るように歩いてくる。
「買い物帰りか? 荷物、ちょっと見せてもらおうじゃねえか」
露骨な因縁のつけ方だ。ヒカリが不安そうに俺の袖を握る。
「下がってろ」
俺はヒカリを背に庇い、男たちと対峙した。
「へえ、カッコつけるじゃねえか兄ちゃん」
一人が吐き捨てるように笑い、拳を振り上げた。
次の瞬間だった。
ヒカリの体が前へ飛び出していた。
迷いのない動きで、男の腕を掴み、その勢いを利用して背負い投げのように地面へ叩きつけた。
ドン、と鈍い音が路地に響き、男は呻き声を上げて動けなくなる。
「なっ……!」
残りの二人が目を剥く。その隙を逃さず、ヒカリは反射的に蹴りを繰り出し、一人の腹を正確にとらえた。巨体が折れ曲がり、膝をつく。
最後の一人は顔を青くしながら後ずさった。
「ちっ……厄介なガキを連れてやがる」
吐き捨てて、路地の奥へと逃げ去る。
静寂が戻った。
「……ヒカリ」
俺は呆然とヒカリを見つめた。
ヒカリは肩で息をしながら、自分の手を見つめている。
「……い、今の……体が勝手に……」
ヒカリの声は震えていた。
「昔、ちょっと空手を習ってたんです。でも、こんなの……」
言い訳のような言葉。だが俺の目には、ヒカリの動きは素人のそれではなかった。
潜在的に眠っている何かが、瞬間的にあふれ出したとしか思えなかった。
「……アディスさん、ごめんなさい。驚かせちゃいましたよね」
ヒカリが不安げに俺を見上げる。
「いや……助かったよ。だけど、ヒカリ……」
続く言葉は飲み込んだ。今は追及する時じゃない。
「帰るぞ。アイラが心配する」
「……はい」
二人で袋を持ち直し、裏路地を抜けて陽光の射す大通りへと戻る。
屋敷に戻ると、庭で作業をしていたアイラが駆け寄ってきた。
「おかえりなさい。卵と牛乳はちゃんと買えましたか?」
「ああ、忘れずにな」
袋を掲げると、アイラは安堵したように微笑んだ。
ヒカリも笑顔を作り、荷物を見せている。
けれど俺の胸の奥には、まだ消えない二つの違和感が残っていた。
一つは――青いケモ耳の影。イオナは、やはりまだリアディスにいる。
もう一つは――ヒカリの力。ヒカリの中に眠るものは、ただの武術経験では説明できない。
転移者――何もないわけがないか……
庭に咲いた小さな花を眺めながら、俺は二つの影に思考を巡らせた。




