第56話 「実感」
翌朝、まだ街の空気が少しざわついている。
魔獣事件から一夜明けても、運河沿いの広場には、昨晩の混乱の痕跡がまだ残っているように見えた。だが、人々は止まらない。取引所の鐘が鳴る前から、多くの商人や投資家が通りを急ぎ、いつも以上の熱気を帯びている。
「アルさん、今日も取引所に行くんですよね?」
隣を歩くアイラが、不安そうに問いかけてきた。プラチナブロンズの髪が朝日を受けてやわらかく光る。
「ああ。こういう時ほど、市場の動きは見逃せない」
俺は短く返し、足を速める。
取引所では、見慣れた顔が迎えてくれた。
「おはようございます、アルヴィオさん、アイラシアさん。昨日は大変でしたね」
受付嬢リアナだ。にこやかながらも少し疲れの見える笑みを浮かべている。
「まあな。だが、本番はこれからだ」
「……取引所の皆もざわついてます。昨日の魔獣の襲撃は、やっぱりアズーリア帝国が関わってるって話で持ち切りです。それで、今日は相場が荒れるって」
リアナの声に、アイラが小さく息を呑んだ。
取引所の中央広場はすでに人で埋め尽くされていた。魔法士たちが宙に舞い、次々と取引開始前の注文を飛ばしている。投資家たちはアルカナプレートを片手に情報を確認し、怒号にも似た声が響き渡る。
魔獣事件の余波――昨日の混乱で物流に影響が出ることは確実だ。市場はそれを敏感に織り込み始めている。
「アルさん……なんだか、今日は怖いです」
「大丈夫だ。俺が指示する」
短く言って、俺は広場を見渡した。
アイラは、ゆっくりと魔力場に乗って浮上していく。
<準備できました>
<そろそろ始まるぞ>
<はい!>
カンカンカンカン!
鐘が鳴り響く。開場の合図だ。
一瞬の静寂のあと、嵐のような怒号が広場を包み込む。
最初に崩れたのは、昨日の事件で被害を受けた物流関連銘柄だった。輸送馬車を扱う商会、保険関連――次々と売り注文が殺到する。
<アルさん、すごい下がってます!>
慌てるアイラに、俺は念話を送る。
<落ち着け。まだ様子見だ>
投げ売りの中に紛れて、逆に買い支えようとする注文も見える。狼狽の裏には、必ず利を狙う者が潜んでいる。
同時に、鉱山銘柄や武具関連が急騰した。アズーリアと緊張が高まったときは、決まって防衛や資材が買われる。予想どおりだ。
その時だった。
『魔獣事件、エリーナ・ルミナス様が大規模光魔法を展開し鎮圧!』
広場上空の魔導スクリーンに速報が映し出された。
周囲の魔法士や投資家は口々に「やはり閃光姫だ」「心強い」とささやいている。
ミラの仕事――情報操作はうまくいったみたいだ。
<アルさん、これ……>
<ああ、ミラに頼んだ。アイラは、これまで通りここに居てもらわない困るからな>
<はい…ありがとうございます>
実際、アイラの魔法の発動を目撃している人間は多くない。アイラを守るために戦っていた知り合いの魔法士と若干名のレオリア軍兵士だ。レオリア軍兵士については、ミラの仕事の範疇だろう。
「アル、これはどういうことだ?」
目撃者の一人、リックが声をかけてくる。
「そのままの意味だよ」
「なるほどね。そっちの方がアルとアイラちゃんには都合がいいなら、そういうことにしておこうかね」
リックはそう言って、相場に戻っていく。そういう察しの良さは、嫌いじゃない。
それにしても、報道の力は恐ろしい。昨日の惨状は、まるで「英雄が街を救った」という物語にすり替えられている。これで市民の不安は抑えられるだろう。そして同時に閃光姫の名声はさらに高まる。
その効果は即座に市場へ跳ね返った。
王国防衛に関わる銘柄が一段高となり、逆に一部の冒険者関連銘柄は「もう危険は去った」とばかりに値を下げる。市場は常に物語を求め、その物語に従って動く。
<アルさん! 小麦が!>
アイラの声に、俺はアルカナプレートを確認する。
小麦先物――一気に値を吹き上げていた。
<やはり来たか……>
<アイラ、すぐに買いを入れろ。200万だ。ただし深追いはしなくても大丈夫だ>
<了解です!>
高速で展開される魔法陣。アイラの指先が舞うように動き、複数の注文が瞬時にトークンコアへ流れ込む。
<5.14ディムで200万出来ました>
――5.23ディム。
スクリーンの数値が跳ね上がり、俺の残高に利益が積み上がっていく。
――5.56ディム。
だが、胸の奥は重い。
――5.68ディム。
俺たちが利を得ている裏で、パンひとつを買うのに苦しむ人々が必ずいる。
<よし、ここで一旦利確だ>
――5.74ディム。
<了解です!>
セレスティア商会のアルカナプレートの残高が大きく増える。
+120万ディム。
そして、取引終了の鐘が鳴った。
アイラがふわりと降りてきて、ぎこちなく頭を差し出してくる。
「……アルさん、今日も、がんばれました」
その仕草に苦笑しながら、俺はアイラの髪を軽く撫でた。
「お疲れさま、アイラ」
ほんの少しだけ、アイラの頬が赤く染まった。
◆◇◆━◆◇◆━◆◇◆━◆◇◆
取引所を出ると、俺たちは行きつけのパン屋へ足を向ける。
「いらっしゃい。あら、今日は、アイラちゃんもいっしょなの?」
パン屋のおばちゃんが手を振ってくれた。だが、その顔にはいつもの元気さが欠けていた。
「小麦がねぇ、もう高くて大変なんだよ。仕入れ値が上がっちまってね。明日からパンも少し値上げしなきゃならないんだよ」
焼きたての香りと共にこぼされる愚痴は、数字の世界よりもはるかに重かった。暮らしに相場が直結していることを改めて痛感する。
「仕方ないですよね」
アイラがそう答えると、おばちゃんは「すまいないねぇ」と寂し気な表情をした。
パンを受け取って外に出ると、アイラがぽつりとつぶやいた。
「……小麦の相場、どこまで上がるんでしょうか」
「まだ、上がる。明らかに後ろで糸を引いてるやつがいる」
俺の言葉に、アイラは小さく息を呑んだ。




