第50話 「出立の日」
~憲章暦997年3月25日(土の日)~
セレスティア商会の正面玄関。
広い石畳の玄関前には、すでに馬車が待機していた。磨き抜かれた木製の車体には商会の紋章が小さく刻まれている。御者台には熟練の社員が腰掛け、護衛役として二人の社員が立っている。
そして、玄関前の中央に立つ少女。オレンジ色の髪をサイドテールに結ったリーリアが、大きな荷物を抱え、俺を見上げていた。
「アル兄……今日は、ついに出発の日だよ」
リーリアの声は明るいけれど、どこか寂しさが混じっている気がする。
「ああ。思ったよりも早かったな」
俺は、リーリアの頭を軽く撫でる。
リーリアは目を細め、子供のころのように甘えるような表情を見せた。
「……えへへ。アル兄にこうして撫でてもらうと、まだ子供のままでもいい気がしちゃう」
「おいおい。これからは立派な魔法士になるんだろ? いつまでも子供じゃ困る」
「分かってるよ。でも……やっぱり寂しいんだもん」
リーリアは俺のことを兄のように慕ってくれている。守るべき存在が遠く離れてしまうことに、すこしばかりの寂しさを覚える。
そんな俺たちを、少し離れた場所からアイラとフィリアが見守っていた。
アイラは両手を前に組み、穏やかな笑顔を浮かべている。けれど、金色の瞳がわずかに揺れていた。
フィリアは相変わらずの涼やかな表情で、隣には護衛のエルヴィナが控えている。
「リーリア様、道中は我らが責任をもってお守りいたします」
商会の社員の一人が深々と頭を下げる。
「うん、ありがとう!」
リーリアは元気よく答え、振り返って俺の手をぎゅっと握った。
「アル兄、私、絶対に強くなって帰ってくるから!」
「ああ、期待してる。でも無茶はするなよ」
「うん」
リーリアは名残惜しそうに手を離し、馬車へと乗り込む。扉が閉まり、やがて御者の掛け声とともに馬車がゆっくりと動き出した。
俺たちは馬車が角を曲がり、見えなくなるまで見送った。
胸の奥にぽっかりと穴が開いたような感覚を覚える。
「……行ってしまいましたわね」
フィリアが小さく呟く。
俺は深く息を吐き出し、気持ちを切り替えるように背筋を伸ばした。
◆◇◆━◆◇◆━◆◇◆━◆◇◆
リーリアを見送ったあと、フィリアに呼び止められた。
「アルヴィオ、アイラ。少しお時間をいただけますか?」
俺とアイラは視線を交わし、頷いてから応接室へ向かう。
ソファに腰を下ろすと、フィリアは正面に座り、エルヴィナは背後に控えた。
「さて――単刀直入にお聞きしますわ」
紫の瞳が俺を射抜くように見つめる。
「アイラの魔法、どうしてあれほど強いのですの?」
アイラが小さく身を縮める。
「わ、わたしは……ただ、アルさんのおかげで――」
「ええ、わたくしもそう感じていますの。アイラ、普段あなたには魔力がほとんど感じられませんの。なのに、あの魔法の威力。魔法を使うときだけ魔力が、湧いて出てくるような感覚……アルヴィオ、あなた、何をしたのかしら?」
フィリアは、真剣な眼差しでこちらを見据えている。
フィリアをどこまで信用するか。少しの間、思考を巡らす。
――このまま誤魔化すこともできる。
――だが下手な嘘が通じる相手でもない。ここを切り抜けても必ずボロがでる。
――フィリアなら、秘密を明かしても無闇に広めることはしないだろう。
俺は一度、フィリアから視線を外し、隣のアイラを見た。
「……アイラ。話していいか?」
アイラは驚いたように目を見開く 。
「アルさん、それって……」
「俺一人の判断じゃ決められない。アイラの力にも関わることだからな」
「……アルさんが信じていいと思うなら、わたしは信じます。フィリア様は……きっと裏切らない方だと思いますから」
その言葉に、俺は小さく頷いた。
再びフィリアの紫の瞳を正面から見据える。
しばらくの沈黙の後、俺は口を開く。
「……俺は、ディム、金で魔力を買える」
「――っ!」
フィリアの目が大きく見開かれる。
「俺自身は魔法を使えない。けど、金を魔力に変えて、アイラに渡すことができる」
フィリアは息を整え、じっと俺とアイラを見比べる。
やがて、ふっと口元に笑みを浮かべた。
「……なるほど。ようやく謎が解けましたわ」
その笑みには驚きと同時に、妙な期待の色が混じっていた。
「では――もしわたくしも、あなたのものになれば……その力を使えるのかしら?」
「お嬢様!?」
エルヴィナの驚く声が響く。
思わず声を詰まらせる俺の横で、アイラが真っ赤になって俯いた。
「ふふふ、冗談ですわ」
フィリアは、いたずらっぽく笑う。
「けれど――いずれ本気でお願いする日が来るかもしれませんわね」
俺は頭を掻きながら、曖昧に笑うしかなかった。
「ともあれ、この力は外に知られてはなりません。あなた方の身を危険にさらすことになります」
フィリアは真剣な表情に戻り、アイラへ視線を向ける。
「アイラ、わたくし同様あなたも実力を隠すのです。明日の試験では、せいぜいDランク程度の力を見せるにとどめたほうがいいですわ。……とりわけ、あなたの姉――エリーナに気づかれるのは避けるべきですわ」
アイラははっと顔を上げ、そして小さく首を振った。
「お姉様は……わたしのことなんか、気にしてないと思いますけど……」
その声はかすかに震えていた。まるで自分に言い聞かせるように。
「いいえ、だからこそ危ういのですわ」
「出来損ないと蔑んでいた妹が、突然才能を見せたらどうなるか。プライドの高いエリーナ様なら、必ず詮索を始めますわ」
俺は力強く頷き、言葉を添えた。
「フィリアの言う通りだ。力を隠すこともまた、身を守る手段だ。今はまだ、その時じゃない」
アイラはしばし迷ったあと、小さく頷いた。
「……わかりました。アルさんがそう言うなら」
応接室を後にし、廊下に出る。
背中にはまだ、フィリアの視線が突き刺さっている気がした。




