第44話 「センチメント」
リアディス取引所の広場は、いつにも増してざわついていた。
俺とアイラが取引を始めてから、上がる時も下がる時も見てきたが、今日のこのざわめきは尋常じゃない。群衆の声の一つひとつが、まるで熱病に浮かされたかのように高ぶっている。
「聞いたか? アズーリア帝国の間諜が紛れ込んでるらしい」
「リアディスの運河を狙うだと? もし本当なら戦になるぞ」
「備蓄小麦はもう押さえといた方がいい。明日には倍値になるかもしれん!」
商人たちが勝手な憶測を飛ばし合い、相場はそれに引きずられるように荒れ狂っていた。
頭上に浮かぶ巨大な魔導スクリーンには、小麦の板が煽るように点滅している。数字が一つ動くたびにざわめきが増す。
<アルさん、小麦、また上がってます……!>
上空のアイラが、慌ただしくリクエストリンクを維持しながら念話を飛ばしてくる。
<落ち着け。これは大衆心理の誤謬だ>
俺は努めて冷静に返した。
俺の手元、アルカナプレートに映る数字がじりじりと動いている。
――4.56ディム。
――4.59ディム。
ついこの間まで3ディム程度だったことを考える異常な値上がりだ。
市場には理屈で説明できない動きがある。恐怖や希望、噂や群衆心理が連鎖し、値を跳ね上げたり叩き落としたりする。今の小麦相場はまさにそれだ。誰も正しい裏付けを確認していない。ただ「誰かが言っていた」だけの話が、市場全体を支配している。
「こりゃあ、ひどいことになってきたな」
後ろで腕を組んでいたリックが呟く。
「噂一つでこれだ」
「はは、アルの口から聞くと説得力があるな」
リックは苦笑したが、その眼は笑っていない。変動率の上昇は、相場の参加者とってそれほどまでにストレスなのだ。
「もういっちょ行ってきますかね」
そう言って、空中に戻っていくリックを見送る。
<アイラ、一度仕切りなおそう。戻ってきていいぞ>
<はい、戻ります>
地上に戻ってきたアイラを出迎える。
その時だった。
「聞いたか? エリーナ様の部隊が、リアディスに駐屯されるそうだ!」
「閃光姫が? 本当か!」
「ならやはり、噂は事実だったんだ……!」
耳を疑った。俺よりも先に、アイラが小さく息を呑む。
「……お姉さまが……」
周囲は一気に沸き立ち、取引所は蜂の巣を突いたような大混乱に陥った。
戦場で名を轟かせる閃光姫――エリーナ・ルミナス。その部隊が前線ではなく、商都リアディスに駐屯する――この噂が真実なら、ただ事ではない。小麦の相場が再び跳ね上がる。買い一色に染まり、売りは完全に飲み込まれていた。
小麦先物が一気に跳ね上がる。
――4.89ディム。
俺は小さく歯噛みする。
噂に実際の軍事行動が重なれば、誰だって信じる。センチメントは現実を押し流す力になる。
「アルさん……」
アイラの声が震えていた。
俺は念話で<落ち着け。ここは俺がいる>と告げたが、アイラの金眼は揺れ続けていた。
姉の名が出たことで、心の均衡が崩れたのだ。
「今日はここまでにしよう」
「……はい」
取引所を出るとき、リアナが軽く会釈してきた。
「お疲れさまでした。また明日もお待ちしております」
その微笑みには、職務を超えた気遣いが混じっていた。アイラの様子に気づいているのだろうか。
商会に戻ると、フィリアが待っていた。
「市場は恐ろしいものですわね。噂ひとつで、ここまで揺さぶられるのですから」
「理屈じゃなく群衆心理で動く。……でも今日はそれだけじゃない」
俺は視線をアイラに向けた。
アイラは肩を落とし、小さくつぶやいた。
「……姉が、エリーナお姉様が来るんですね」
フィリアの紫の瞳がわずかに揺れる。
「閃光姫。王国最強とまで謳われる方」
アイラは唇を噛みしめた。
「エリーナ姉様は……ルミナス家の誇りです。わたしは、その影にいるだけ。……でも、こうしてアルさんと一緒に取引をして……」
言葉が途切れる。目には動揺が映る。
「アイラ」
俺はゆっくりと言葉を選んだ。
「俺たちの取引は、アイラがいるから成り立っている。姉が誰だろうと関係ない。アイラはここに立っている」
フィリアもまた、柔らかく微笑んだ。
「そうですわ、アイラ。誇りは血筋に宿るものではなく、自らの選択に宿るもの。あなたはもう歩みを始めているのです」
アイラの肩が小さく震え、やがて息を吐いた。
「……はい」
その声はまだ弱々しいが、確かに前を向いていた。
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【資産合計】1,444,464ディム
【負債合計】0ディム
【純資産】1,444,464ディム
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