ティラナ戦役編 プロローグ
~憲章暦997年3月15日(星の日)~
朝、リアディス取引所は、いつも通りの騒がしさの中にあった。
リアディスの中心部、巨大な球体のアーティファクト――トークンコアを囲む広場には、今日も無数の投資家と取引魔法士たちが集まっていた。
あちこちでリクエストリンクの魔法陣が開き、オーダーフォームの光が、矢のように宙を走る。数多の魔法の軌跡が飛び交う様子は、戦場と言って差支えない。新人魔法士が術式構築に焦り、ベテランたちは淡々と注文を処理していく。その一瞬ごとの攻防の積み重ねが、株式や商品の価格を刻々と動かしていく。
<アルさん、今日の相場は静かですね>
トークンコアの魔力場に乗って空中に浮遊しているアイラから念話が飛んでくる。
<そうだな。異変がないかだけ確認しよう。主要銘柄のリクエストリンクを頼む>
<はい、リクエストリンク行きます>
アイラは、そう言うと手慣れた手つきで術式を編み瞬時に魔法陣を展開する。俺は手元のアルカナプレートを操作し、主要銘柄の状況をざっと眺めた。特に仕掛ける理由は見当たらない。こういう日は、さっさと切り上げるに限る。
<アイラ、今日は長居する必要はなさそうだ>
<そうなんですね。今日はもうおしまいですか?>
<そうしようと思う。もう、降りてきても大丈夫だ>
そう念話で伝えると、アイラはゆっくりとこちらに向かって降下してきた。
「アルさん、お疲れさまです」
俺は、軽く手を挙げてアイラを出迎える。
「アイラ、お疲れ様」
出迎えると同時に、俺はふと手を伸ばしかける。リーリアにするみたいに、無意識に頭を撫でてやりそうになってしまう。慌てて自分の指先を止める。ほんの一瞬の衝動だったが、心臓が跳ねる。
「じゃあ、今日は早めに商会に戻るか」
俺は、何事もなかったように言葉を続ける。リーリアがリアディスに滞在しているせいか調子が狂う。
「はい、戻りましょう」
アイラは頷き、俺の横へと並んだ。気づいてはいないようだ。
俺たちは、声を張り上げる投資家や、注文を捌く魔法士たちを横目に取引所を後にする。
取引所を後にした俺たちは、所属するセレスティア商会へと向かった。セレスティア商会は、アルカセントラルの北側――商業区の一角にある。
外観は白壁と青い屋根のよくある中堅商会だ。実際に貿易や取引所での株式や商品取引、店舗運営まで多岐にわたる商業活動を行っている。だがセレスティア商会の本来の役割は、そこではない。それは、大貴族アリスタル公爵家が表立ってできない様々な活動を支えることだ。
中に入ると、フィリアのメイド兼護衛隊隊長のエルヴィナさんが受付嬢をしている。エルヴィナさんの鋭い視線を感じながら階段を上がる。二階の奥――『取引部』と書かれた扉を開けると賑やかな声が飛び込んできた。
「アル兄! 見て見て」
リーリアが、魔法陣が書かれた紙を掲げて走ってくる。机の上には、描きかけの魔法陣と黒く焦げた物体…どうやら今日も派手に失敗したらしい。
「また爆発させたのか?」
「ちょっとだけだよ!でも昨日よりはうまくなったよ!」
本人は満面の笑みだ。チャレンジ精神はいいが、火事だけは起こさないでくれよ…
リーリアは来月、王都エルドレインの魔法学校に入学予定だ。入学前から魔法式の練習に熱心なのはいいが、商会の机をもうすでに3台ほどダメにしている。
奥のソファでは、黒髪の少女――ヒカリがアルカ語の発声練習をしていた。ヒカリは異世界、日本からの転移者だ。ここでは言葉も暮らし方もすべてをいちから覚える必要がある。
俺も異世界の記憶があるという点は変わらない。だが、転生者である俺はあくまで日本の記憶があるこの世界の住人だ。その差は、大きい。
「わ、私は……パンを……たべる…たい、です…」
ヒカリは真剣そのものだ。だが、時折混ざる日本語のアクセントがどうしてもこの世界の発音に馴染まない。
ヒカリは、俺に気づくとぱっと顔を上げる。
「あっ、アディスさん。おかえり…なさい。……きょうの、かぶ、どう、でしたか?」
俺にもアルカ語で、話をしてくるあたりヒカリなりにこの世界に馴染もうとしているのだろう。
「まあまあだな。今日は早めに上がってきた」
そう言って部屋進んで行く。奥の机では、書類の山の向こうから金髪の間に覗くおでこが輝いている。頭が動くたび、山積みの書類がわずかに揺れる。山の隙間から姿を現したフィリアは、眉間に軽くしわを寄せて、次々と判を押していた。
「戻ったのですね、アルヴィオ」
「今日は動きがなかった。こっちは相変わらず忙しそうだな」
「必要な忙しさですわ」
フィリアは、視線を上げずに答えるが、口調に柔らかさがあった。
昼過ぎ、やることもないので食堂でのんびりしていた。マーケットも静かだし特に急ぎの用事もない。こういう時間をどう過ごすかは自由なはずなんだが……
「アルヴィオ様」
ふと背後から声が振り返ると、エルヴィナさんが腕を組んで立っていた。
「お暇そうですね」
「いやそんなことは…」
「玄関と掃除をお願いします。ついでに荷物の受け取りもお任せします」
「……俺が?」
「ええ、セレスティア商会の社員でしょう?」
笑顔に見えるが、目が笑っていない。怖いな……この恐怖心は、きっと初めてあったときにボコボコにされたトラウマだろう。結局、箒を持たされて玄関先に出る羽目となった。
直後、荷を抱えた商人がやってきた。
「こんにちは。セレスティア商会様宛の荷物です」
「ああ、受け取るよ」
サインをすると、商人は荷を下ろして安堵の息をつく。そして、雑談を始めた。
「最近、アルカ海の商船の動きがちょっと変でしてね」
「変?」
「ええ。普段ならリアディスに寄港するはずの船が、別の港に向かったり、出航予定が急に伸びたり。なにかあるんですかね」
軽口のように聞こえるが、こちらの情報を何か聞き出そうとしているのだろう。
「さあな、わからないな」
適当に返し、商人を見送る。
掃き掃除を続けながら、さっきの商人との会話について思考を巡らせる。確かに、何気ない与太話かもしれない。多くの人はあまり気にも留めないだろう。だが、こういう小さな違和感が大きな嵐になることを、俺は前世で嫌ほど見てきた。
夕方、取引部の部屋に戻った。窓際の椅子に腰かけ外を見る。いつものように空は赤く染まり、リアディスの街並みが長い影を落としている。
だが、なぜだか今日は、その光景が落ち着かない色に見えた。




