第33話 「大魔法士の忠告」
~憲章暦997年1月27日(火の日)~
取引終了のベルが鳴る。
俺は、トークンコアの前に立つ。アルカナプレートを起動し、ディムの残高を確認する。
――118万ディム。
画面に刻まれたその数字は、ほんの少し前までは絵空事でしかなかった。
魔導プログラム売買の導入によって、取引の精度と速度はこれまでの常識を覆すほどに向上し、損失も少なくなった。
演算式を複数組み合わせた魔法陣を構築し、それを術式として保存することで、最適化された注文が連続的に実行される。人間の手では到底不可能な精密かつ即応性ある取引が可能になったのだ。
だが、満足している時間はない。俺の本来の目的は、富を積むことでも金融市場で名を上げることでもない。
リーリアを取り戻す。
それがすべての原点であり、最終的な目標だ。いま、この手にある資金はそのための手段にすぎない。
翌日の朝、俺はアイラとともに、リアディス中心街にあるヴァース商会の重厚な扉をくぐった。
高級感のある応接室の内装、漂う香草の匂い、そして張りつめたような空気感。すべてが洗練されていて、庶民にとっては息苦しい場所だ。
「約定のとおりだな」
奥から現れたレイラは、変わらぬ冷静な表情で俺たちを迎え入れた。
「借り入れと成功報酬、占めて26万ディム、全額。今日付で完済です」
俺は淡々と告げながら、アルカナプレートを差し出した。
レイラは内容を確認すると、わずかに眉を上げてから、口元に笑みを浮かべた。
「少年、やっぱり面白いね。よほど上手く回ったようだね」
「魔導プログラムが予想以上に機能しました。おかげで十分な資金が揃ったと思っています。……奴隷オークションでリーリアを取り戻す準備ができました。これもレイラさんがアイラを助けてくれたお陰です」
「ふむ」
レイラはソファにもたれながら、こちらに鋭い視線を投げかけた。
「奴隷オークション…、甘く見ないことだ。貴族、軍、そして裏社会の連中まであらゆる権力が関わる魔窟。それが奴隷オークションだ。ミラの調査では、最近は公爵家の影もあるという情報もある」
「なるほど、わかりました」
俺は、レイラの忠告に気を引き締める。
「リーリアという娘、魔法適正はあるか?」
レイラがふと尋ねてくる。
「ないです」
「それは、よかった」
レイラはそう言うと説明を始めた。
「奴隷オークションでは、魔力適正があるとわかれば、価格は天井知らずで跳ね上がる。誰もが欲しがる魔法という力を金と契約で縛ることができる。それは商人や貴族にとって都合のいい力だ」
レイラの話を聞いて少し不安になるが、リーリアには魔法適正はない。魔法適正があれば真っ先にクロエが見初めているはずだ。
「やはりリーリアには魔法適正はないと思います。魔法適正があればクロエが見初めているはずです」
「それもそうだ」
レイラはそう言うと肩をすくめた。俺は続けて質問をする。
「ほかにオークションで気を付けることはありますか?」
「そうだね…。魔法適正がないからといって安心できるとも限らない。容姿や年齢、出身、そして見せ方で価格は大きく変わる。その娘が誰かの目に留まった時点で、油断はできない。これは肝に銘じておくことだね」
俺はぐっと拳を握った。資金を持っていても、すべては掌中にあるとは限らない。難しい戦いになることは覚悟していたが、予想以上に壁は高いかもしれない。その後も、いくつかのアドバイスを受けて俺たちは、商会を後にした。
商会を出て、リアディスの潮風にあたりながら深く息を吐いた。リアディスは喧騒に満ちていたが、俺の胸の内は静かだった。隣を歩くアイラが、ふと口を開いた。
「アルさん……わたし…奴隷オークションって……とても、残酷なところだって思います」
「……ああ、俺もそう思う。人を物のように扱う、あんな仕組み……本当なら、壊してしまいたいくらいだ」
「でも、そこにリーリアさんがいるんですね」
「そうだ。だから行く。どれだけ危ないところでも、そこにリーリアがいるなら、俺は踏み込む」
アイラはうなずいた。少しだけ寂しそうな表情にも見えたが、しっかりとした決意がこもっていた。
その日の午後、俺たちはリアディス南区にある奴隷オークション管理事務所を訪れた。灰色の石でできた四角い建物は、装飾ひとつない殺風景な外観で、まるで人の感情を拒絶するかのような冷たい印象を受ける。
中に入ると、受付にいた無表情な男に手続きの目的を告げた。彼は機械のような口調で応対し、誓約書と身分証、そして資金証明としてアルカナプレートの提示を求めてきた。
「参加条件は、成人していること、アルカナプレートを所有していること、そして……一括支払い可能な資金能力があることだ」
「条件は満たしている」
提示された誓約書に目を通す。売買成立後の引き渡し方法、競売中の外部からの干渉の禁止、過去の所有者の権利無効……淡々と綴られた文言は、制度の非情さをこれでもかと突きつけてくる。
アイラがそっとつぶやいた。
「やっぱり……つらいですね。誰かの人生が、こんな紙切れ一枚で決められてしまうなんて」
その言葉に、俺はしばし沈黙した。何も言えなかった。言葉が、追いつかなかった。
全ての書類を提出し、俺は正式に奴隷オークション参加者として登録された。開催は3日後。事前審査を終えたことで、招待状と落札者番号、当日の座席の割り振りまでが記された封筒を受け取る。
建物を出た後、空を見上げると、夕陽が雲の隙間から差し込み始めていた。
オークションまでの3日間、どんな準備ができるか。いや、どれだけの覚悟を積み重ねられるかがすべてだ。
帰り道、アイラがふと口を開いた。
「アルさん……わたしが一緒です」
アイラの声は、静かで強かった。
その横顔に、俺は少しだけ安心した。
まだ先は見えないが、少なくとも、隣には信じられる人がいる。
夕陽が沈むリアディスの街。
橙に染まった石畳の道を、俺たちはその光を背に、確かに歩き出した。
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【資産合計】922,134ディム
【負債合計】0ディム
【純資産】922,134ディム
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