第1話 「ワンオブゼム」
~憲章暦996年12月21日(星の日)~
成人の日の翌日、まだ夜が明けきらぬ薄闇の時間、祭りの喧騒が嘘のように村は静まり返っていた。
俺の名前はアルヴィオ・アディス。
このノーヴェ村で生まれ育った、ただの村人……と言いたいところだが、少しだけ特別だ。
まず、俺はこの村の出身ではないらしい。
育ての親であるクロエが、どこかで拾ってきて、この村の外れに建つ小屋で俺を育ててくれた。クロエの破天荒な性格には苦労もさせられたが、俺にとっては母親代わりであり人生の師でもある。
クロエは、ハイエルフで自称高名な魔法士らしい。魔法の研究に明け暮れる傍らで、俺にも魔法や魔道具についてのことを教えてくれた。
俺は、魔法適正は全くないが、教わった魔法の技術体系は魔法が絶対の価値を持つこの世界で生きる上である程度は役に立つだろう。他にも、世の中の仕組みや文字、歴史や魔獣のこと、果ては魔法銃の扱い方までクロエに教わったことは山ほどある。
だが、この家にクロエはもういない。
「アル、お前はもう一人で大丈夫だろう」
俺が成人を迎えた1年前のあの日、そう言い残しあっさりと放浪の旅に出てしまったのだ。それからというもの俺は、この村での生活を自分一人で回している。
そしてもう一つ――親代わりだったクロエにも伝えていない秘密がある。
それは前世の記憶があることだ。こことは違う世界で投資家として成功を収めた記憶。経済を理解し、マーケットと対話しながら莫大な富を築いた記憶だ。
だが、それも前世の話だ。今はこの辺境の田舎でスローライフを謳歌中というわけだ。
そして今日は、そのスローライフを支える魔獣狩りに行く予定だ。居間のランプをつけて、狩の準備を始める。
「やるか」
俺は椅子に腰かけ、手早く支度を整えていく。皮の胸当て、グローブ、昼食用の干し肉に水筒がテーブルに並ぶ。立ち上がり、壁際の棚からアクアレイジを取り出す。
アクアレイジは、クロエ謹製の魔法銃だ。
その銃口から高速で打ち出される水の弾丸は、この辺りに生息する魔獣ならば一撃で仕留められる。
魔法が使えない俺にとって、こいつは命綱だ。
「さて――」
準備が終わり、荷物を持ち上げようとしたその時だった。
――ドン!ドン!ドン!ドン!
玄関の扉を激しく叩く音が聞こえた。
早朝の空気を切り裂くその音は、明らかに緊迫したものだった。
「アル兄! アル兄!お願いだ、開けてくれ! 早く!」
玄関の向こうから必死な声が聞こえてくる。
聞き慣れた声――リーリアの弟、テオだ。普段の無邪気な調子とはまるで違い、その声は震えていた。
明らかに何かヤバイことが起こっている。俺は荷物を置き、玄関へと急ぐ。扉を開けた瞬間、目に飛び込んできたのは、泣き腫らしたテオの顔だった。
「テオ? どうした、何があった?」
息を切らせたテオが、俺を見上げる。幼い顔には焦燥と恐怖が色濃くにじんでいた。
「アル兄……たすけて……姉ちゃんが……リーリア姉ちゃんが……!」
リーリアにただならぬことが起こった?俺は思わず息を呑み、言葉を挟まず、ただ続きを待った。テオはぐっと拳を握りしめ、しぼり出すように声を上げた。
「 知らない男たちに、連れて行かれたんだ! 」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かが切れた。早朝の眠気は一瞬で吹き飛び、怒りと焦りが一気に沸騰する。
――落ち着け、アルヴィオ。
自分に言い聞かせ、呼吸を整える。
「詳しく話してくれ、テオ」
俺はテオの肩に手を置き、次の言葉を促す。
「落ち着いて、一つずつ説明してくれ」
テオは嗚咽を交えながらも、断片的に話し始めた。
「外で変な音がしたんだ」
「……見に行ったら、リーリア姉ちゃんが知らない男たちに連れて行かれてて……抵抗してたけど、……無理やり馬車に乗せられて」
「どういうことだ!?村長は、親父さんは何をしていたんだ?」
「あれは、借金取りだよ。……父さんが作った借金が返せなくて……だからリーリア姉ちゃんが…連れて行かれたんだ……」
テオの声は震えており、その言葉の一つ一つが俺の頭に重く響いた。借金取りがリーリアを連れて行った? そんなことが、本当に起きてしまったのか?
「借金っていうのは、本当なのか?」
「本当だよ…オレ知ってるんだ。父ちゃんがヤバイやつからお金を借りてたって」
「姉ちゃんは、オレと妹たちを守るために……っ!」
そこまで言うと、テオは言葉にならない嗚咽を漏らし、膝から崩れ落ちた。信じがたい状況だったが、テオの泣きじゃくる姿を見て事実を受け入れざるを得なかった。
「テオ……」
俺には、続く言葉がなかった。
前世で、経済が生む悲劇を幾度も見てきた。だが、それがこの小さな村で起こるとは思ってもみなかった。それも自分の身近な人に降りかかるとは、完全に想定していなかった。胸の奥に煮え立つような怒りと、己への悔しさが渦巻く。
――俺の油断、俺の慢心だ。
リーリアは昨日の祭りであんなに笑っていた。大人としての第一歩を踏み出し、未来に向かって歩き始めたばかりだった。それなのに、その未来が奪われてしまうなんて到底受け入れられるものじゃない。
「テオ、大丈夫だ。俺がリーリアを助ける」
俺はテオの肩を掴み、まっすぐにテオの目を見て言った。
「……ほんとに? 本当に助けてくれるの?」
テオの涙で潤んだ目が、わずかに希望の光を取り戻すのが見えた。
「ああ、絶対だ。必ずリーリアを連れ戻す。だから安心しろ、テオ!兄ちゃんを信じろ」
強く、確信を込めて返す。
「うん…リーリア姉ちゃんを…お願い…」
テオはまだ涙を拭いきれないまま、少しだけ頷いた。リーリアの未来が、こんな形で奪われるなんて、俺は絶対に許さない。笑っていた、あの顔が、あの声が、今もはっきりと記憶に残っている。
それが恐怖に染まっていたとしたら――その想像だけで怒りが再燃する。
俺は拳を握りしめる。爪が掌に食い込んでいくのを感じながら、何とか心の中の怒りを抑え込もうとした。
とにかく、情報が足りない。確実に状況を掴む必要がある。まずは現場を確認する。それから村長と話をする。
「テオ、行こう!」
俺はテオと共に村長の家へと走った。




