第85話 「はじまりの手紙」
~憲章暦997年7月7日(星の日)~
朝。
俺はなぜか玄関前の掃き掃除をやらされていた。昨日のうちにやっておけと言いたいが、エルヴィナに何か言い返すと、あの鋭い視線で黙らされるので逆らえない。
箒を動かしていると、運搬業者の男が二つの封筒を持ってきた。
「セレスティア商会さん宛てに手紙でーす!」
「ああ、ありがとう」
ひとつは薄ピンクの紙封筒で、明るい色遣い。もうひとつは深紫の封蝋がされた、重苦しいやつだった。
「……フィリア宛てか?」
紫の封蝋の手紙は、貴族の香りがプンプンする。
そして、薄ピンクのほうには、見覚えのある丸くて元気な字が踊っていた。
「リーリアから……か」
思わず口元が緩む。
ちょうどそのタイミングで、商会の扉が開き、アイラが顔を覗かせた。
「アルさんー? 掃除、終わりましたか?」
「ああ、終わった。あと手紙が来たぞ。リーリアと……フィリア宛ての二通だ」
「リーリアさん……! 元気してるのかな……?」
アイラの目が少しだけ柔らかくなる。
二人で中へ戻ると、取引部ではすでにフィリア、ティタニア、ラウラ、イオナ、エルヴィナがそろって雑談をしていた。
「アルヴィオ、遅かったじゃない。掃き掃除なんて五分で終わりますわよ?」
フィリアが紅茶を口にしながら言う。
「……いや、手紙を受け取ってたんだ。ほら」
「まあ、わたくし宛の……お父様から?」
フィリアに蜜蝋の封筒を渡し、俺は薄ピンクの封筒を開いた。
中には、見慣れた丸っこい字で、楽しそうな文章が並んでいた。
――アル兄へ。学校は本当に楽しいよ!
読み上げるまでもなく伝わってくる。文全体から元気が溢れている。
――新しい友達ができたの。その子はね、ロピカルハ王国の出身なんだよ。
ほう。ロピカルハ。香料諸島を領有する海の国だ。
――いろいろあって助けたら、お礼にすっごく綺麗な貝殻をくれたの。七色に光るの! アル兄にも一つあげるから、大事にしてね!
そう書かれた文の下に、小さな布袋が紐で括られていた。開けると、確かに七色の光を帯びた貝殻――いや、貝殻というか、宝石めいた何かが一つ。
光に当てるたびに色が変わる。不思議な物質だった。
「きれい……」
アイラがそっと近づいてくる。
「ロピカルハの貝殻……? こんなの、見たことありません……」
「俺もだ。でも――」
俺は貝殻を指先で転がしながら、ふと昔クロエから聞かされた話を思い出した。
「……クロエが言ってたな。ロピカルハには、なぜかアルカナプレートが使えない地域があるって」
「え? プレートが使えない? そんな場所が?」
イオナが青髪を揺らしながら首をかしげた。
「ああ。理由は不明らしいけど、そこだけアルカナプレートが反応しないらしい。だから昔からその地域には独自の貨幣文化が残ってるって、クロエが言ってた」
「じゃあ、その貝殻……」
「多分、その地域通貨のひとつだと思う。価値があるかどうかは分からないけど、少なくとも土産には良いな」
「リーリアさん、素敵なものを贈ってくれたんですね……!」
アイラが嬉しそうに笑う。俺は胸が少しだけあたたかくなる。
――夏休みには、その友達の家に遊びに行くから、リアディスに帰るのは遅れるよ!
手紙はそう締められていた。
「……楽しそうだな。よかったよ、リーリア」
誰にも聞こえないように、小さく呟いた。
「ふふ、アルヴィオは完全にお父さんみたいですわね」
フィリアがにやにやしてくる。
「ほっとけ」
俺がぼそりと返すと、フィリアはもう一通の手紙を開封した。
「お父様から、ですわね……」
フィリアは姿勢を正して読み始めた。
――ロピカルハ王国の王女殿下の結婚式が来月開催される。
――招待状を受け取っているが、アズーリアとの戦後処理で多忙につき出席できない。
――よって、公爵家の名代として式に参列してほしい。
「……なるほど、そういうことですのね」
フィリアは手紙を静かに閉じた。
「わたくしが、名代としてロピカルハへ……そして……リーリアさんもロピカルハへ」
ほんの一拍だけ間が空いた。
そして。
フィリアは勢いよく立ち上がった。
「――というわけで!」
紫の瞳が、ぱあっと輝く。
「ロピカルハが、わたくしたちを呼んでいますわ!」
「いや、待て」
「セレスティア商会、慰安旅行に行きますわよ!」
「待ってくれ」
「海! 南国! 香辛料! これはもう、行く流れですわ!」
「だから待てって!」
俺の抗議は完全に無視された。
「ふふ、面白そうね。海は好きよ?」
ティタニアが軽いノリで乗ってくる。
「僕、ロピカルハの固有植物めちゃくちゃ調査したかったんだよ! ぜひ行こう!」
イオナも全力で乗っかった。
「……なぜ話がそう飛躍するのですか……」
ラウラが額に手を添えてため息。
「お嬢様が行くなら、護衛として同行します」
エルヴィナさんは涼しい顔で当然のように言い切った。
……止まる気配ゼロだ。
「アイラは?」
「えっ、えっと……海……行ってみたい、です……!」
控えめな声だが、しっかり前向きだった。
俺は頭を抱えた。
「決まりですわ! 準備を整えますわよ、皆さま!」
フィリアの声が商会に響き渡る。
手にした七色の貝殻が、窓から射す光を受けてきらりと輝いた。
どこか――これから始まる面倒ごとを、先に祝福しているようにも見えた。
俺は深くため息をついた。
「……ロピカルハ、か。どうせ行くなら、準備だけはしておかないとな」
そう呟きながら、手のひらで七色の貝殻をそっと握った。




