Intermission 24 「とある奴隷商の消失」
その日、魔導スクリーンには小麦先物の文字が踊り、数値は刻一刻と上昇していく。
『速報:アーガナス近郊の大穀倉地帯に巨大なダンジョン出現。魔素が噴出し、周囲の農地に大規模な魔素汚染が発生!』
そのヘッドラインに市場が沸いていた。
「見たか? 売ってる馬鹿がいるぞ!」
奴隷商アンドレの豪快に笑う声が、取引所の一室――上級商人用の個室に響く。
「買え、もっとだ。北部の畑が腐れば、食糧は上がる一方だ。今売るのは愚か者だぞ」
「アンドレさん、ですが……上がり方が急すぎます。少しポジションを――」
「黙れ。上がるときは、乗るのが商人ってもんだ」
仲介人は顔を曇らせたが、言い返すことはできなかった。
ここまでの上昇で、アンドレの予想はことごとく当たってきたからだ。
仲介人は、取引魔法士へ渋々、念話を飛ばす。
「買い、出来ております」
その報告にアンドレは満足そうな笑みを浮かべる。
勝利を確信した男の顔がそこにあった。
◆◇◆━◆◇◆━◆◇◆━◆◇◆
昼前。取引所の空気が、一変した。
『速報:フレイジア球根、食用可能な加工手法を確立。――アリスタル学術院所属のイオナ・セイラン女史が発表』
魔導スクリーンの音声が流れた瞬間、広場がざわめきに包まれる。
仲介人は即座に顔を上げた。
「アンドレさん、これは……!」
「気にするな。食えたところで美味いわけがない」
アンドレの声は、やけに乾いていた。
「しかし、市場が反応しています! 一部の投資家が――」
「黙れ! お前まで狼狽してどうする!」
アンドレの怒声が響き、仲介人は口をつぐんだ。
取引所の空気が重く沈む中、アンドレは椅子にもたれ、煙草をくゆらせた。
「……まったく、くだらん話だ。私の読みは外れん」
昼の鐘が鳴る。
アンドレは上機嫌で部屋を出ると、上階の個室食堂に入った。
テーブルには高級ワインと、焼きたての肉料理。
窓の外では、陽光が穏やかに広場を照らしていた。
アンドレは満足げに頬を緩め、ワインを揺らした。
「この香りだ……勝者の匂いってやつだな」
ゆったりとした昼食。
だが、その静寂を破るように――扉が勢いよく開かれた。
「アンドレさんっ!!」
仲介人が、血相を変えて駆け込んでくる。
その手には、白い紙包みに入った――粗末な屋台の麺。
「なんだ貴様、今は食事中だぞ!」
「た、大変です……これを、見てください!」
仲介人は包みを開く。湯気が立ち上がり、香ばしい匂いが部屋を満たす。
アンドレは顔をしかめた。
「貧民の食い物を持ち込むな。臭いが移る」
「これが問題なんです! 今、取引所の前で売られているんです! ……これ、フレイジアの球根から作られているんです!」
「……は?」
「やはり――フレイジアは、食べられるんです。しかも、味も悪くない。午後には市場が反応します!」」
アンドレの手が止まった。
次の瞬間、顔を歪めて笑う。
「はっ、そんな話で市場が崩れるものか。あの球根が食べられるとわかったところで何になる」
「恐れながら、フレイジア球根の供給量を考えると十分に小麦の代替となり得ます……」
「黙れ!」
アンドレは、拳でテーブルを叩いた。皿の上のワインが飛び散る。
「私は買う。午後には値が戻る。恐怖で売る馬鹿がいるなら、安く拾ってやるだけの話だ!」
仲介人は唇を噛みしめた。
それ以上、何を言っても無駄だと悟った。
アンドレはワイングラスを一気に煽り、叩き置く。
「午後も下がったところ買い増す。準備をしておけ」
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午後の鐘が鳴る。
取引所の魔導スクリーンが再び光り、数字が走り出した。
「……なんだ、冗談だろ」
アンドレは立ち上がり、スクリーンを睨みつけた。
数字は容赦なく落ちていく。
――7.54ディム。
――7.12ディム。
――6.89ディム。
「アンドレさんっ! このままでは……!」
「……まだだ。まだ戻る。下げは一時的だ!」
「買いだ、全力で買えッ!」
仲介人が蒼ざめた顔で叫ぶ。
「――そんなことをしたら破滅します!」
「黙れ! 私が誰だと思っている!」
容赦なく下落の波が続く。
『ヴァース商会、フレイジア食品の取引を開始――市場関係者「小麦需要の見通し下方修正」』
アンドレの喉が、かすかに鳴った。
「……馬鹿な、こんなことが……?」
取引所の喧騒が、いつのまにか悲鳴に変わっていた。
魔導スクリーンに映る数値は、刻一刻と下へ――まるで奈落へと落ちていくように。
――6.42ディム。
――6.31ディム。
――6.19ディム。
数字が動くたびに、部屋の空気が凍りついていく。
仲介人の額には玉のような汗が浮かんでいた。
「アンドレさん、もう手仕舞いを――!」
「黙れッ!」
アンドレの怒号が、室内の魔導灯を震わせた。
しかし、声の裏にあったのは、焦燥と恐怖。
彼自身、その現実を受け入れられずにいた。
手にしたアルカナプレートの表示は、残高の急減を告げている。
魔力の流出と共に、彼の“富”は蒸発していく。
――5.98ディム。
――5.78ディム。
アンドレは机に手をつき、呟くように笑った。
「……笑わせる。私が負ける? そんな馬鹿な話が――」
だが、言葉の途中で、スクリーンに浮かぶ新たな見出しが視界に突き刺さる。
『速報:レオリア王国政府、フレイジア食品の国家備蓄を決定。アリスタル公爵発案』
音が、消えた。
取引所の広場では、無数のオーダーフォームの魔法陣が弾け飛ぶ。
――5.53ディム。
アンドレの頭の中で、何かがぷつりと切れた。
「……嘘だ……戻る……必ず戻るはずなんだ……」
口の端から乾いた笑いが漏る。
「資金が不足しています。申し訳ございませんが、強制清算となります」
仲介人の乾いた言葉が響く。
「いやだ……やめろっ……私の金だぞ……!」
しかし、トークンコアの光は容赦なく、残高を0へと刻み込む。
◆◇◆━◆◇◆━◆◇◆━◆◇◆
夕刻。
アンドレは廃人のように椅子に沈み込んでいた。
仲介人の姿はもうない。
全てを失った男の背に、傾きかけた夕陽が射し込んでいた。
ふと、静寂の中で、控えめなノック音が響いた。
アンドレは、反射的に顔を上げる。
「……誰だ」
扉が静かに開く。
黒い外套の男が、影のように立っていた。
「アンドレさん……我らの資金、回収に参りました」
低く、乾いた声。
アンドレは、その言葉の意味を理解するのに数秒を要した。
「ま、待て……あれはまだ……! 返す、必ず返す……!」
男が一歩踏み出す。
その足音が、冷たい金属の鎖の音を連れてくる。
アンドレは後ずさりし、椅子を倒した。
顔は蒼白で、脂汗が頬を伝う。
「や、やめろ……私はアンドレだぞ! お前らごときが――」
「もう、あなたは商人ではありません」
淡々とした言葉とともに、鎖がアンドレの手首に巻きつく。魔力封印の刻印が光り、アンドレの身体から力が抜けた。
「やめてくれ……私は……私はまだ……!」
懇願の声が途切れ、室内が再び静寂に包まれる。
ただ、遠ざかる鎖の音と、重い扉の閉まる音だけが響いた。
◆◇◆━◆◇◆━◆◇◆━◆◇◆
取引所の外。
屋台の前で、男が笑いながら湯気の立つ麺をすすっていた。
「安くてうまいな、これ」
「フレイジア麺だってさ。小麦より腹もちがいいらしい」
「へえ、そりゃ助かる」
笑い声と、夜風の音。取引所の広場では、魔導スクリーンがゆっくりと数字を消していく。
――小麦先物、終値3.87ディム。
その日、複数の商人がリアディスから姿を消した。




